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総論と各論の狭間について

おかぼん

 日本経済新聞のコラム春秋に、世の中はNIMBYだらけ、とあった。

 NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称される。

 米軍基地、原子力発電所などはその最たる例で、日本に米軍基地は必要だという保守系の人も、いざ自分の町に基地がやってくるとなると「防衛のためだ、喜んで」とはいかないだろう。東京電力の原子力発電所が東北電力管内の福島県に作られたときも、安価な電力は供給してほしいが万一に備えて、ロスの多い高圧送電線を、延々東京まで張り巡らせたのである。

 身近な問題では私の出身高校でも、会館を建て替えるときに「部活のブラスバンドの音がやかましい」と反対運動が起きて、もとの場所に建て替えられなかった。不足している保育園も自宅の隣に建てられるとなると、「近くていい」という声よりも「園児の声がやかましい」と疎む声の方が、その親世代であっても大きいのではないだろうか。

 国会議員の選挙区の区割り問題も、「総論賛成、各論反対」という根っこは同じ。はたまた同和問題も、「差別はいけない」と言いつつ、自分の子供の結婚となると難色を示す人がいたり。そういう私も、隣町に日本最大とも言われるショッピングセンターができて喜んでいる。遠いと不便であるし、近ければ近いで休日は周辺が大渋滞となる。自転車で気軽に行けるくらいがちょうどよいのである。

 新聞は「大局的見地に立って、公利のために私利は捨てるべきだ」と続く。かっこいい言葉でそうありたいが、何が大局で、誰に滅私奉公するのか、凡人にはなかなか難しい。

 先の大戦では、滅私奉公は美徳と教育されてきた。本土が空襲され原爆が投下されるまで、大半の国民が戦争の愚かさに気づかなかった。日清戦争以来、戦場は常に海外にあり、戦歿者の遺族を除けば直接的な被害を知ることはなかった。否、遺族といえどもヒトゴト、我が身が直接危険にさらされるまで私利に流れ、大局を知ることはできなかったのである。

 春秋氏の主張を胸に畳み、新しい年度を迎えたい。