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金のない高齢者の施設について考える

司 高志

 先ごろ北海道札幌において、老人ホームではないかと思しき施設で火災があり、11人の方がお亡くなりになった。お悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りします。

 本題の前に、筆者が遭遇した出来事について話をしたい。食堂に入るため夜道を歩いていると、声をかけられたような気がした。振り向くと一人のおじさんが、駅はどちらかと聞いてきた。駅の方へ向かっているところだと答え、どこに行くのか重ねて尋ねた。駅の裏側の自分の家に行きたいとおじさんは答えるので、何か建物はあるか尋ねた。建物はいっぱいあるというので目印になる建物は? と聞くと黙ってしまった。夜道はよくわからないと言いつつ、消防署だ、警察だと口にするので自分の位置がわかってきたのかと思いたいが、これらは目印になっていないようだった。警察で道を聞きましょうよ、と勧めるといやがる。家に電話しましょう、というと一人住まいだという。駅の見えるところでおじさんは駅だと声をあげ、ありがとうといわれて別れた。が、おじさんはまだ迷っているようだった。筆者は仕方なく一人で食堂に入った。このような人が利用できる福祉はあるのだろうか?

 さて、本題に入ろう。

 冒頭の施設には老人も入居しており、それなりのサービスを提供しているところから、この施設は老人ホームではないかという疑いがもたれている。この先の議論の方向として、老人ホームと思しき施設はしっかり届け出をして、防火設備などを整備せよという声が上がってくるに違いないと思っている。この声自体は正論中の正論であり、だれも異議を唱えることはできないだろう。だがここで、筆者は違う角度から高齢者施設について述べてみたい。

 この施設は、入居者へのサービスの割には入居料が安い施設で、入居者の評判も悪くなかった。月に数万円というから利用者もそれなりに満足していたのではないかと思う。

 この施設は老人も入居しており、老人にもサービスを提供していたことから、老人ホームに当たるのではないかとの疑いがもたれている。

 老人ホームのような行為をしていながら、なぜ無届であるのか? それは、届け出をしてしまうと消火設備などを取り付けることが義務となってしまい、安い料金で施設の利用を維持することができなくなるからだ。

 話は変わって、日本のこれまでの福祉のあり方を考えてみると、子供や高齢者に対するケアは家庭任せだった。具体的に述べれば、一家の稼ぎ手としてサラリーマン(夫)がいて、専業主婦(妻)が子供や老人の面倒をみるというのが、家庭の標準的モデルであった。

 ところが経済社会は、自由な競争をすればバラ色の世界が訪れるとの幻想のもと、競争の強化に乗り出した。見えざる神の手は労働者の賃金をあの手この手でカットした結果、現在の家庭では、子供や老人のケアにお金を割くことができなくなった。

 これに加えて、どのような制度であっても、制度を利用する者は自分の利益の最大化を求める。これが神の見えざる手として、市場価格を決定づける。

 例えば、地域包括センターは市役所などが運営するが、地元医師会が作った一般社団法人が市役所から地域包括センターの運営業務を受注し、医師が作った法人の老人施設を紹介する。こうして入居する高齢者施設は、先の札幌の施設に比べるとどんなに低く見積もっても10万円以上、確実に高い。まさに地獄の沙汰も金次第なのである。

 それにしても届け出強化で無届施設を見つけ次第、片っ端から摘発していては、金のない人は安心して入居できる施設はない。神の見えざる手で制度を支配するのは、制度を上手に利用して稼ぐことのできる強者である。政治家、省庁は日本の福祉についてぜひ、金のない人のためにどうするか考えていただきたい。