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相撲協会の運営について考える

司 高志

 将棋と相撲はどちらも日本の伝統だが、交代で事件を起こしてしまうようである。どちらもプレイヤーや元プレイヤーが組織の運営も行っている点が関係していると思える。今年の将棋は中学生棋士が大活躍しているが、相撲協会が大荒れだ。そこで、今回は相撲協会の組織運営について考えてみたい。

 相撲協会によれば、相撲の起源は神事にあるとされている。

 神事についてであるが、ヒト以外のものを自然とすれば、人は、自然に対して恐れと感謝を抱いていた。恐れの感情は、強い獣や人の力ではどうにもならない災害、飢饉、日照りなどへの恐怖心により作られた。感謝は、食料になってくれた動物や果実などへのものである。稲作を行うようになれば、自然への畏怖と感謝はさらに増幅されただろう。自然が崇拝の対象とされ、具体的には、生命力や繁殖力の強い獣、大きな木、岩、山などに神が宿るとされた。本来はこのあたりの自然な感情が発展して神道になればよかったが、人工的にねじまげられ、本来の道から外れたように思える部分もある。

 話がそれたので神事の続きを考えよう。相撲が神への捧げ物、つまり奉納であるとするなら、神に喜んでもらう必要がある。奉納の歌舞音曲と同様の要素を持つことになる。そうすると、神に喜んでもらうための歌い手や舞手、奏者に求められるものは何かが問われるようになるであろう。

 すなわち、技量があれば、それ以外の行いはどうでもいいのか、もしくは、技量と普段の行いが同時によくなくてはならないのか、はたまた、技量や行いは関係なく、神がかりのようなトランス状態ならいいのか、いろいろだろう。

 相撲協会のホームページでは、力士には技量と品格を求めているように思えるが、ホームページを読み解くと、実は一番力を入れているのは興行収入ではないかと思う。

 プロレスでは、最も重要なのは、興行収入である。興行収入のためには、相手の攻撃をかわさず受けねばならないという不文律があり、メディアを通じての罵り合いの口撃あり、場外乱闘ありである。反則もなぜかカウント以内なら何回繰り返してもOKで、つまり、お客が喜べばほとんどどんな技もOKである。

 相撲協会もプロレスほど極端ではないにしても、この方向に引っ張られているようである。

 外国人力士を入れるのも、力士のなり手が少ない分のカバーと興業をおもしろくしようという意図だろう。しかし、力士に品格を求めるのであれば、教育が重要である。会社でいうなら力士はいわば社員である。養成機関である相撲部屋を事業部門の一部署とするなら、事業部署ごとにてんでんバラバラで社員教育をさせるのはよくない。

 また、単に強いだけでは、高位までいけないようなシステムが必要である。このシステムを考えるのは、力士から理事になっている人には無理だと思うので、外部の人を組織運営に是非入れてほしい。外部の人ならば、強さだけでは横綱になれない教育とシステムが作れる可能性がある。

 例えば少林寺拳法の武術の技量を示す「武階」と精神面の到達を示す「法階」のようなものを設け、どんなに強くても横綱を名乗らせないようにするとか、行いの悪い者は降格するとか、厳しい運用は、相撲だけを体験してきた力士には無理があるだろう。

 暴行事件や行事のセクハラ、無免許疑惑付きの交通事故など、今までは表沙汰になることなくもみ消していたのだろうと疑いたくなる。このような組織の運用を改めるべく、外部の人を経営に参画させていただきたいと思う。