月刊ライフビジョン | 地域を生きる

宗教的いい加減の効用

薗田碩哉

  年末のクリスマスが終われば煤払いをしてお寺の除夜の鐘を聴き、明けましたら産土の神社へ初詣―われわれの年のけじめはキリスト教から仏教、神道へといともスムースに流れていく。いかにも「いい加減」だが、これこそほど良い加減の宗教ミックスであって、案外悪くはないと思うようになった。

 先月、地域のサロンで「クリスチャンでない人のためのクリスマス集会」というのを開いた。ジングルベルが街に鳴り響き、クリスマスツリーがそこここに煌くわが日本で、実のところクリスチャンは100万人そこそこ、人口の1%にも満たない。お隣りの韓国には1500万人、共産中国には人口が多いとはいえ1億人のキリスト教徒がいるというのに。それでも日本のクリスマスは国民的な行事として根を下ろし、チキンやケーキが飛ぶように売れていくのだ。折角だからこの事態を踏まえた上で、非クリスチャンが集まってイエス様の降誕について考えてみようという趣旨である。

 そこでいろいろお話をして見えてきたことは、われわれにとっての宗教的行為は一種の精神安定剤で、状況と気分によっていくつかの選択肢を使い分けているという事実である。すがすがしい気分になりたいときは「祓い給え清め給え」の神社を訪い、親しい人が亡くなって悲しいときは「一切苦厄、色即是空」の仏さまに救いを求めてきた。キリスト教は、人と人の望ましい関係を導く「愛」の宗教として受け入れられたと言える。そこでいまや結婚式の3分の2はキリスト教方式で執り行われている。しかし、使われる教会の9割は結婚式に特化した宗教施設ではない「教会もどき」で、牧師さん役の大多数は資格のないニセモノなのであるという。クリスマスはその延長にあって家族の愛を確かめる「家庭の日」という位置づけで定着したと見ることができそうだ。

 宗教が人間生活の中軸にあるものとして命をかけて守り従うべきものであったのは、日本では中世までで、江戸時代には着実に世俗化が進んだ。西欧では近代化過程においてはキリスト教の影響力は大きかったが、資本主義の定着とともに世俗化して、今日、教会に通う人は高齢者ばかりになってきた。イスラムの世界では宗教のいきの良さはいまだに保たれているが、その原理主義がいつまで力を持ち続けることができるだろうか。やがては、さまざまな宗教の「いいとこ取り」を恥じず、諸宗教の平和共存を怪しまない「宗教先進国にっぽん」の顰に倣う国が増えるのではないかと思われる。あんまりまじめなクリスチャンとは見えないトランプ氏が、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が何とか折り合いをつけて使い合って来た聖地エルサレムに波風を起こすような愚策を弄しているのを見るにつけ、宗教と政治を切り分ける必要を痛感する。

 とまれ我らの地域サロンでは、クリスマス語りの後はクリスマスキャロルを楽しく歌い、サンタクロースも登場して愛のメッセージの交換をし、香り高いコーヒーとお菓子を味わって「きよしこの夜」を合唱した。

 「幸いなるかな心の貧しき人よ、天国はあなたたちのものである」(マテオ5-3)。

【街のイベント帖34】ご近所音楽サロン

 NPOさんさんくらぶは「音楽フェス2017」と銘打って、地域の小ホールで持ち寄りの音楽会を開いた。
 ピアノに琴にトランペットにギターにハーモニカ、手品や和太鼓も登場し、最後は全員大合唱。円卓にはお茶とお菓子ばかりでなくワインも焼酎も並んで。歓談のひと時を楽しんだ。


まちだ未来の会  ブログ  https://blogs.yahoo.co.jp/machida_huture_625
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薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。