月刊ライフビジョン | ビジネスフロント

差別と弱虫

おかぼん

 先日、人権啓発研修を受講した。扱われた内容は差別問題一つを取っても、「被差別部落」「在日コリアン」「身体障害者」「LGBT」等々と多岐にわたっていた。

 教科書通りに言えば、「差別される側はこんなに苦しんでいる。差別を許してはならない。」ということだが私は、人は誰でも他人を差別したい気持ちを内包しているのではないだろうか、と思っている。

 かなり前になるが、学生時代に次のような同和教育を受けたことがある。

 明治に被差別部落民が形式上とはいえ解放されたとき、差別感情の強い人が部落の人に、汚れた尿瓶を水できれいに洗った後、湯飲み代わりにして飲めるかと尋ねたという。差別意識は理性でも理屈でもなく、感情が絡んでいる。

 在日コリアンの問題では、北朝鮮のミサイル発射はもちろんのこと、韓国との慰安婦問題は戦後70年を経ても未だ解決せず、竹島の領土問題も加わって複雑である。

 韓国や北朝鮮が日本の植民地時代のことをいつまでも言い続けるのは、心の深いところに癒えない傷が残っているのだと思う。つまり、植民地にされた経験は、植民地にした側がいくら謝罪しても謝罪し尽くすことのできない、民族のプライドを傷つけてしまったのだと思う。

 LGBTでは、未だに同性愛が死刑になるという国が存在するという。日本では同性愛で死刑など全く考えられない。殺人者であっても死刑になるのは相当残虐な犯罪の場合で、しかも昨今では死刑廃止の声が大きくなっている。

 ところでなぜ、差別するのか。おそらく、弱虫の自分を鎧のようなもので守りたいのだろう。学歴差別もその一つで、どこの学校を出たかで人物を推定し、就業の機会に優劣をつける社会である。先の選挙では貧困による就学機会格差の解消について、教育無償化政策が話題にされていた。

 国内外で国家や社会を分断するニュースを耳にする。人権を基本に置き、差別される側に寄り添おうとする日々のあり方が、個人ができる平和行動の第一歩と思いたい。

 いろいろ考えさせられた2日間であった。