月刊ライフビジョン | 地域を生きる

町にはホテルが欠かせない

薗田 碩哉

 多摩ニュータウンの中心地と言うべき多摩センター駅前には「京王プラザホテル多摩」があった。「あった」と過去形なのは、今年の1月に閉鎖されてしまったからである。その原因がコロナ禍による利用客の激減にあっただろうことは想像に難くない。

 多摩センターには「サンリオ・ピューロランド」という遊園地(今はテーマパークというようだが)がある。キティちゃんというキャラクターが売りで、若い女の子に人気があり、高校生ぐらいの娘たちがキティの扮装で楽し気に歩いていたりする。

 コロナ前にはここにかなりの外客も来ていた。特に中国からの観光客に人気があったようで、大型の観光バスが賑やかに中国語でまくしたてる中年の紳士淑女を満載してやってきたものだ。その方々の中には京王ホテルを利用してくれる人もあったようだ。それも含めて人の動きが止まってしまい、都心ならともかく、郊外に立地してかなり客室も多かったホテルはやって行けなくなったのは無理からぬことかもしれない。

 地元の住民がわざわざホテルに泊まることは滅多にないが(現に筆者は一度も宿泊はしていない)、それでも親戚が大勢来た時とか、娘の国家試験の日、大雪で交通途絶が心配だったので前の日からこの駅前ホテルで待機したとか、インフルエンザに罹った子どもをホテルに隔離したとか、地元民の宿泊利用もないわけではない。コロナ時にはそうした利用がずいぶんあったはずだ。

 しかし、ホテルは宿泊客だけのためにあるのではない。まずは大規模な会合、研究会とかセミナーの開催がよく行われていたし、結婚式とか卒業記念パーティーとかで、振袖のお嬢さん方がホテルの内外を華やかに練り歩く風景も目を楽しませてくれていた。何よりも我が家では「晴れの日」には決まってこの地元のホテルの世話になってきた。古くは息子の結婚相手のご両親と顔合わせをしたのもこのホテル、孫の誕生祝とか、入学の祝いとか卒業記念とか、節目節目にはホテルのレストラン(和食か中華を使うことが多かった)で宴を張ったし、近年、老夫婦だけの生活になると「ちょっと気分転換に」と、普段よりはだいぶん豪華な松花堂弁当を注文して一杯やってくるのも楽しみだった。

 ホテルは仕事場でもあった。ゆったりしたラウンジは、座り心地のいいソファーに腰を沈め、静かな雰囲気の中で本を読んだり、新企画の構想を立てたり、原稿を書いたりするのにぴったりだった。コーヒーの値段は普通の喫茶店の倍以上したが、何杯でもお代わりができた。特に人と会ってじっくり話をするのにはうってつけで、ずいぶんいろいろな人物とラウンジの会話を楽しんできた。中には深刻な話も、人生相談も、研究論文の指導なんかもあって、考えてみると筆者の精神生活の相当な部分がこのホテルによって支えられていた気がする。

 ホテルは町には必須の装置である。世界中、どの都市に行ってもホテルがないというところは見当たらない。それも町の顔と言ってもいい豪奢な、歴史の重みを湛えたホテルから、庶民的で気軽に泊まれるホテル、さらには場末の木賃宿まで、訪れる人の多様な状況やフトコロ具合に合わせた、より取り見取りのホテルが並んでいる。旅の思い出の中にはホテルや旅館での宿泊体験が大きな意味を占めている。

 東京を代表するホテルと言えば帝国ホテルだろうが、わが故郷の横浜では、大桟橋にほど近いニューグランドホテルがハマの顔である。草創は幕末の開港の頃で、日本を訪れる要人はみなここに投宿した。太平洋戦争で負けてマッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできて、その夜に泊まったのもニューグランドである。今でもマッカーサーが使っていた部屋が残されている。

 二年ごとに行ってきた中学・高校の同期の会が、今年みな80歳に達するというので最後の会にしようということになったが、その会場に選んだのがこのホテルだ。この秋に予定している同期会打ち止めパーティが終わったら、ニューグランド名物の重厚な造りのイギリスバーへ赴いて、気の合った仲間とスコッチで祝杯を挙げることにしよう。

 地域コミュニティにおいても、市民と市民が絆を結んだり、それを確かめ合ったりする交流の場としてホテルが機能して来た。それはコミュニティの基盤となる活動であり、ホテルこそコミュニティを具現化する場であった。そうして毎日、当たり前のようにして使ってきたホテルが消えてなくなってみると、地域に生きる色合いがだいぶん薄れた感じを抱かざるを得ない。

 駅前の大通りを歩くたびに、いやでも閉鎖されたホテルの前を過ぎることになる。閉ざされた扉には「これまでのご愛顧を感謝します」というビラが半分剝がれかけたまま、いまだに貼ってある。いっそのこと市がこのホテルを買収して市役所にしてくれたらいい。ちなみにフランス語では市役所のことを「町のホテル=hôtel de ville」というのだから。

月刊ライフビジョン地域に生きる」2023年3月

地域のスナップ】ツリーハウスをつくる

 里山の雑木林の一角にツリーハウスを作り始めた。二股に分かれた太いコナラの木を軸にして、集めてきた大枝小枝を組み合わせて、とりあえずテラスを作った。四角い枠の上には太い竹を半分に割って並べて床にした。子どもたちは恐る恐る床に上がって、それでもみんな楽しそうだ。  (写真:光橋翠)


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長