月刊ライフビジョン | 家元登場

食のエージング

奥井禮喜
「外」食道楽

 1963年に高校を卒業するまで、外食体験は非常に少ない。自分が格別少なかったのではなく、わが故郷ではそんなものだった。5,6歳だった。父親に寿司屋へ連れられて、高いカウンターに面喰った。立派な新しいカウンターで、目の前に管から水がちょろちょろ出る。お箸もあるが、通人は握られた寿司を握って食べるので、それで指を洗う。なにを食べたか記憶がない。美味しかった記憶もないが、そのだいぶ後、ちょくちょく、母親に連れられて寿司屋に行くようになって、大好物はアワビであった。こりこりして、ワサビが独立して効くような心地だった。母親も大好きで、会社に入って帰省するたびに寿司屋でアワビを食べた。高校時代にはテニス部の後輩を引き連れて大判焼き(今川焼)の小店に入った。親友と喫茶店で学生帽を着用したスタイルでビール小瓶を飲んだ。1度だけ悪童ごっこをしたのであって、喫茶店もほとんど行きたいとも思わなかった。

「食」罪感

 勤め人になってからは、会社帰りに連れ立ってよく飲んだ。伊丹『老松』の二級酒熱燗が定番でコップ酒3杯、おでんのスジ、コロ、大根、豆腐がおつまみ。スジ、コロは今ではなかなか食べられないが味の記憶が鮮明だ。焼き鳥は、先輩に連れられて初体験した。格別うまいと思わず、レバーが小ぶりで食べやすかった。いい調子になってアパートへ帰り、翌朝起きると安酒のせいか頭痛がする。面倒になって事務所へ電話して「本日休む」と言うと、「あんた、なにを寝ぼけてるのよ」、一緒に飲んだ先輩が交通事故で入院されたと聞いて一気に頭痛が消えた。当時は、飲酒運転が多かった。先輩をお見舞いに行き、派手に負傷した顔を見て、吹き出しそうになった。先輩は日ごろの元気が失せて、意気消沈だ。一緒に飲んだ手前、罪悪感があったか、それから後も、焼き鳥は苦手で、自分から行きたいとか食べたいと思わない。月給取り、焼き鳥が重なるのかもしれん。

労働「食」

 先日、たまたまもつ屋に入った。ロッジ風の作りで、さして大きくはないが清潔感がある。写真入りのメニューを見るが、さっぱりわからない。付け足しのキャベツ片を摘まみつつ、比較的穏当そうなのを適当に頼む。これが容易に噛み切れない。飲み込むまでひと騒動する。まあ、慌てることもない。ぼちぼちいただこう。お客が次第に増える。中年までの人ばかりである。30年ほど前、福岡でもつ鍋に誘われた。割合浅い鉄鍋にキャベツやニラ、もやしもあったか。とにかく野菜がてんこ盛り、出汁も少な目で野菜鍋の感。これがグツグツ煮立ってくると出汁がしみて野菜が美味しい。どんなもつを食べたのか記憶がない。たぶん、飲んで野菜ばかり食べて満足したに違いない。なにしろ昔から硬い肉は苦手である。やはり数人で鍋を囲まないと気分が出ない。当時もつ鍋は東京に進出した。もつ鍋の看板を見たことはあるはずだが、その後一度も味わったことがない。

「超」ホルモン

 青年時代は関西なので、もつという呼び方は主流ではなかった。ホルモン焼きである。豚などの臓物を小さく切って焼いた。放るものだからホルモンだと講釈した連中が多かったが、とんでもない。Hormonは正真正銘のドイツ語である。初めてホルモン焼きを体験したのがいつだったのか記憶していないが、場所は大阪だった。少々べたつくようなカウンターに就くと、ドーンとキャベツが出された。まったく品書きを見てもわからないので端から順番に頼んで、熱燗をすすりながらホルモンを食べた。見てくれはよろしくないが、とてもやわらかくて食べやすかった。合いの手に塩を少し振ったキャベツを食べるとさっぱりして、よろしい。妙な話だが、大人になったような心地がした。硬いもつを食べつつ、思い出に浸っていて、そうか、ホルモンは壮青の食べ物やなと気づいた。ややあって、くたびれた顎を意識しつつ勘定を払ってもつ屋を後にした。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人