月刊ライフビジョン | 論 壇

破局の前に戦争放棄の思想を

奥井 禮喜

 プーチンが戦争を始めた。これは確かな事実である。いつ、いかにして幕が下せるのか。全然わからない。プーチンだけで幕が下せないのも事実である。

第三次世界大戦が始まった!のか

 戦争が直接おこなわれているのは、ウクライナに侵攻したロシア軍と、市民と国土を守ろうとするウクライナ軍との間であるが、西側諸国からの軍需品がウクライナ軍に届けられている。兵站も戦争の主体だから、すでに多くの国が参戦している。経済制裁は、軍事力ではないが、ロシアを孤立させる目的であり、兵糧攻めだから、直接武力衝突がなくても戦争の一形態である。しかも制裁の効果は、敵味方問わず、すでに広範囲に影響が出ている。ウクライナの戦争は、単なる局地戦ではない。

 プーチンによれば、彼の危機感や問題意識は、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大にある。ソ連崩壊後、西側がじわじわとロシアの安全を脅かし、ロシアの政治経済の発展を妨害してきた。ウクライナがNATOへ加盟すれば、ロシアとの間で一朝事あるとき、ロシアはNATOを相手に戦わねばならない。ウクライナがNATO加盟前であれば、相手はウクライナのみだから与しやすい。プーチンの頭のなかでは、すでにNATOとの衝突が現実化しているらしい。

インテリジェンスの効果?

 まず、ウクライナ国境へロシア軍を配備した。米欧は、ロシアがウクライナ侵攻の意図ありとして早々に警鐘乱打した。米国はインテリジェンス(軍事的秘密情報)を暴露して、お前がやろうとしていることはお見通しだ、というわけだった。しかし、手の内を見透かされても踏みとどまらず、ロシアが侵攻した。――結果論ではあるが、インテリジェンスが、こと志と反してプーチンを挑発したとの見方も捨てきれない。

 そこで、1つの重大な仮説としては、もし、米国・NATOが、ウクライナが未加盟だから、軍隊を派遣しないと公表しなかった場合、ロシアがウクライナに侵攻しただろうか。第三次世界大戦になるのは、リスクが大きい、とプーチンが考えたかどうか。これは結局わからないが、実際の戦況をみると、米欧が参戦覚悟と見たならば、プーチンは侵攻を断念したかもしれない。

プーチンの誤算

 その理由の1つは、侵攻作戦の不手際である。侵攻1か月の時点では、あきらかにロシア軍が停滞している。3月25日ロシアは、ウクライナへの全面的侵攻から、ドンバス地方の住民解放に集中する方向へ戦略を転換すると発表した。ウクライナ軍が、ロシア黒海艦隊から入手した機密文書によると、侵攻は2週間程度で完了する目論見だった。ウクライナ軍がかくも頑強に抵抗するとは読んでいなかったフシがある。

 ウクライナ国境に配備したロシア軍は19万人である。これが、北西キエフ、北東ハリコフ、東ドンバス地方、南マリウポリの4方面に分かれて侵攻した。首都キエフも簡単に落とせると見ていたようだ。19万人は、ウクライナ軍20万人と同程度である。市街戦となれば、攻める側は守備側の5倍の兵力を必要とするという。占領を維持するには40万人以上の兵士を必要とする。

 しかも、ロシア軍の兵站が不首尾で、兵士の食料や車両の燃料が十分に届けられない。ロシア兵が、店舗の商品を略奪したという報道もそれを裏付ける。ロシア軍の通信が、ウクライナ軍に傍受されたり、妨害されて、動向が筒抜けだった。

 両軍兵士の士気の違いも大きいようだ。ロシア兵には、戦争する大義が十分に浸透しなかった。ロシアもウクライナも、市民はお互いに親族・知人が多い。徹底的に憎みあうという関係ではない。とすれば、よほどの大義がなければ、攻める方の士気が上がらない。一方、ウクライナ側は、理不尽な攻撃に対して、市民や国土を守らねばならないという大義を、誰かに教えてもらうまでもない。

 国際的宣伝戦では、ウクライナが圧倒している。プーチンは、国内の言論を統制し、反戦デモを弾圧している。国内全体の士気が上がっていない。クリミア半島併合の際、プーチンの人気が上昇したが、今回は、目立って上昇していない。侵攻は短期間に首尾が上がらなかった。戦争が長引くほど厭戦・反戦意識が高まるのではなかろうか。

 ウクライナ軍の反転攻勢は部分的ではあるが、成功しつつある。キエフ西方マカリフや、同北西イルビンを奪還し、東部イジュームでも押し返した。ハリコフは膠着状態、南部へルソンではウクライナ軍が反転攻勢に転じた。キエフ周辺では、ロシア軍が塹壕を掘っている。もちろん、軍事力面でのウクライナの劣勢は変わらないが――

 つまり、プーチンは、電撃的に決着させる・できると踏んでいたのだから、第三次世界大戦を覚悟していたのではなかろう。

第三次世界大戦への畏れ

 ロシア指導部の意思決定が、全面的にプーチンに委ねられているのは非常に剣呑である。プーチン周辺の高官の辞任や軟禁など、政府内部、財界人の批判・離反が伝えられるが、反プーチンの大きな動きにはなっていない。また、それがかなり確かなものになって、プーチンが自身の孤立を痛切に感じた場合、大量破壊兵器に手を出さない保証はない。

 さらなる戦争の長期化は、ロシア対ウクライナの戦争の枠を超えて、欧州全体の戦争となる危険性をはらんでいる。

 プーチン流の戦争の大義は、それなりに練られた理屈である。しかし、ウクライナ侵攻以前に、たとえばロシア経済自体が思わしくない。プーチンは大国意識を表明するが、GDPはポーランド以下である。経済は、一次産品に依存しているわけで、大富豪が存在する一方、国民生活はお世辞にも上等とは言えない。対ロシアの経済制裁が効いてきて、すでにルーブルは下落、物価は高騰している。

 国内に、戦争の実態を隠していても、人々の生活が悪化すれば、誰でも話が違うことに気づく。戦争を始めたものの、プーチン自身が展望を持てない。自身の立場の孤立を痛切に認識した時、自暴自棄にならない保証はない。力こそが正義だと信じ込んでいる人間は脆い。自分が描いた物語自体によって、自分が追い込まれてしまう。

 一方、対ロシア勢力の結束が固まっているといっても、まだ、戦争の出口まで論じていない。依然として、プーチンの物語に振り回されている。つまり、こちらも力が正義だと信じ込んでいるだけで、展望を持っていない。力が正義論の行き詰まりは、大量破壊・核戦争への道筋が浮かび上がる。

 核戦争は、相手だけでなく、こちらも膨大な損害を被るのだから、核兵器自体が相互抑止力を持つという考え方があったが、いまや、牧歌的にすら見える。トランプが放言したように、使わないモノを持つのはナンセンスである。核抑止論を信奉していない人間が、追い込まれて、しかも、自身の物語に裏切られた場合、精神的平静を保つことには、期待を持てない。

プーチンの物語によれば

 ルースキー・ミールという言葉がある。ロシア世界が、世界の中核となる・なりたいとする考えである。ロシア帝国の時代は、ロシア人口は世界の1/7であった。いまは、1/50以下である。

 人は、言葉によって思考し、話し、行動する。プーチンは、ロシア語を話す人々による大きなロシアの復興を夢見ている。プーチンと盟友のロシア正教会モスクワ総主教キリル1世は、東方正教会・ロシア文化・言語による歴史的伝統を3つの柱としているが、どうも、これがプーチンの物語の精神部分らしい。

 ウクライナ(辺境の意味)のキエフは、ロシアのルーツである。「キエフはすべてのロシアの母」だとする。キリスト教の聖地エルサレムと同じ感覚であろう。ロシアとウクライナは兄弟だというプーチンのロマンの支えだ。

 文化を唱えつつ、兄弟と言いつつ、軍事侵攻するのはなんとも納得しがたいが、キリル1世流では、「十字軍」的心地であろうか。(教会内部の異論も出ている)

 これを狂信的というのは簡単である。ただし、宗教とナショナリズムの合体は、古今東西歴史的にみられる。公安部門をのし上がって、栄耀栄華を掴んだプーチンにすれば、きわめて素晴らしい物語であろう。

 ロシア文化を大切に思う気持ちは悪くはない。しかし、他の文化を超越して、自身の文化の絶対性を誇るのは、井の中の蛙である。歴史的にさまざまの文化が融合し、あるいは止揚して、こんにちの世界を作ってきた。この、至極当然の考えがなければ、文化・伝統自体が排他的であり、紛争の大きな原因になる。

 われわれも苦い記憶がある。かの大和魂、日本精神という考えである。これには、それなりの美しさがあるとしても、特殊な理屈であり、普遍にはなりえない。世界は、さまざまな部分(サブシステム)があって、全体(トータルシステム)を構成する。主たる文化(カルチャー)は、部分の文化(サブカルチャー)との構成である。部分の文化をもって全体の文化にするのは、僭越である。まして、自分が信奉する文化を、軍事力で推進するのは話にならない。支離滅裂だ。

 ゲーテ(1749~1832)は、人間の自由な生き方を追求し、超国民的なもの、世界的広がりがあるドイツ発の文化をめざした。プーチンがロシア文化を誇るのであれば、文化そのもので世界に発信すればよい。西側が、チャイコフスキーやショスタコーヴィチなど偉大な音楽家を生んだロシア文化を否定すると言うが、世界中にファンをもつ作曲家の国の評価を貶めたのは、プーチン自身である。

権力が目指すべきは市民の福利

 ものごとを始めるのは人の意思である。歴史を作り出す主体は「人」である。人間は、気がつけば生まれていた。戦禍の地に生まれるのも、やんごとなき家庭に生まれるのも、本人の意思とは全然無関係である。いずれにしても、ややこしい世の中へ放り出された。そこから各人は、なにものかをめざして生きようとする。はじめは被投企されたが、こんどは自身が自身を投企する。

 人間は自分がなろうとするものになる――という。自身が、まだそれではないが、それでありたいものになろうとする。かくて、100人100通りの人生が登場するのだが、なろうとするものになるにせよ、なれないにせよ、日々の生活が維持できなければならない。

 同時代を生きる人たちが最低限欲するのは、「普通で、安定していて、先が読める生活」であろう。この言葉はそこそこ妥当である。これ、プーチンが西側メディアの記者に語った言葉だ。国家が、市民諸氏によって構成されているのだから、国家権力がめざすべきは、市民が共有する利益=福利(the common god)を追求することである。

 人が歓迎する政治が、戦争の勝利だろうか。理不尽な敵が攻めてきて、果敢に防衛戦に励まざるを得ないならいざ知らず、自身が戦争を開始するのは、とてもじゃないが21世紀の政治家が始めることではない。自分がなろうとするものになる努力を重ねるのは理性的人間である。社会の秩序は、小さな村落から、国、世界に至るまで、理性があるからこそ維持される。

 戦争は、秩序を意図的に破る仕業であって、反理性の典型、野蛮一直線の企てである。力が正義というのは、野蛮の理屈であって、理性のカケラもない。戦争は、野蛮が理性を放逐するのだから、たまたま勝利したとしても、その本質は汚辱・堕落の精神であって、名誉なんてものは、とっくにドブに捨てられている。

 核兵器の相互抑止論は、人間の理性を前提している。狂気やヒトラー的精神を前提していない。反ナチ(ウクライナのネオナチ問題が深刻だとしても)を唱えつつ核兵器の使用に言及するなど、舌の根が乾かないうちに、自身がナチと同じ程度でございますと語っている。

 いま、はっきりした。いかに平和を唱えても、核兵器では平和は絶対にもたらされない。わが国においては、核の傘の日本という時代錯誤に基づいて、核共有論、敵基地打撃論などを放言する連中がいるが、わざわざ人々の安全を捨てるのと同じだ。わが議会人は、小手先の安逸な理屈に頼るのではなく、もっと、根本から思索する気風に変わらねばならない。

 米国が、1945年8月6日と9日に、広島・長崎に原爆を投下した目的は、ソ連に対するデモンストレーションであった。日本が、敗北寸前であることは十分過ぎるほど知っていた。膨大な殺戮をしつつ、かつ恫喝に使う精神状態の政治家から、平和への高邁な気遣いが読み取られるわけがない。恐怖の均衡を前提する平和論は、語るまでもなく、真っ赤な偽りである。

戦争放棄の思想が大事だ

 「力の正義」、「力の平和」という正反対の言葉を使った平和論には、際限ない軍備拡大の道が開けているだけで、平和からはどんどん遠ざかっていく。果たして、プーチンだけが異常だろうか。危機を叫んで、軍事力拡大をしたり顔で話す政治家が、紳士だろうか。理性の欠落した野蛮人が、いかに高価なスーツを着用しても、紳士とは言わない。

 いまの世界は、好戦的気風が席巻している。ウクライナ戦争が、明日、突然停止しても、この気風は、徹底的に、不安定、疑心暗鬼、利己主義、非道徳性がはびこる世界のために貢献するだろう。精神的には、すでに第三次世界大戦の渦中にある。

 第一次世界大戦後、欧州の知識人を中心に厳しい後悔と反省の弁が語られた。しかし、それから21年後には、第二次世界大戦が始まった。第二次世界大戦の集結の、まだ戦火の余燼がくすぶるような時期において、東西冷戦が始められた。歴史はくり返す――反省と自戒なき人間は救いがない。救いなき人間の演じる芝居は、もちろん悲劇ではないし、喜劇でもない。

 人類の普遍の原理は、それぞれの国家の上にある。戦争する国の人々はすべて同罪である。戦争をしているのは、人間ではない。モノである。戦争は、人間をモノに変える。人間が消える。生きていても! ――そこに戦争の最大の非人間性がある。

 国連は、反ファシズム共同戦線を地盤として成立した。この歴史を、世界の政治家(もちろん誰しもだが)は、頭に叩き込まねばならない。世界の警察官をアメリカに委ねるような考え方が正しくない。民主政治の国が、専制政治の国よりも戦争に介入する度合いが少ないという証拠はない。

 世界を破局から救うためには、――戦争放棄の思想――をおおいに語り合わねばならない。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人