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加計学園問題と都議選の結果

司 高志

 内閣の支持率が軒並み下がっている。これは、加計の問題点が明らかになるにつれて、首相のこの問題に対する姿勢があらわになってしまい、そこからこの人の持っている本性が広く知られるようになってしまったことによる。

 ところが、本人はどうしてこうなってしまったのか、全く理解している様子がない。この状態は、前都知事の末期の時と非常によく似ている。

 前都知事は、仕事ができる自分が、公費や政治資金を公私混同的に利用しても法令違反ではないから許されると思っていたが、それは市民には通用しなかった。公職にある人には、普通の人よりは厳しい自己規律が求められる。これが前都知事には理解できなかった。

 首相の場合は、加計学園問題について突っ張っていれば、そのうち忘れられると思い、強気の対応をしたが、こちらも大きな思い違いをしている。突っ張っていても大丈夫なのは、揚げ足取りの質問や印象操作のための質問に対してである。加計学園問題は、表面に出てきていない裏のプロセスがお友達優遇であると疑われているのであるから、突っ張れば突っ張るほど怪しさが増す。

 現政権が一強であるが故に、強気の返答でも許される場合があるが、加計に関しては逆効果であることを認識すべきだ。

 ところで、そもそもなぜ一強であるか理由がわかっていない。G民党は嫌いだが、M進党よりはましということで、消去法による一強になっているだけで、政策に賛同してのことではない。

 それが証拠に、都議選では、G民はいやだが、M進党はもっといや。では、都民Fでということになった思考の結果だ。だから、都民Fであっても政策に賛同している訳ではないことに注意しないと、とんでもないことが起きる。容易にその地位を失う。

 まずは、首相や前都知事の思い違いを説明する前に日本人の考えに影響を与えているものについて考察してみたい。それは、儒教、仏教、神道である。

 儒教、仏教、神道は直接的にその内容が日本人に意識されているわけではなく、日本人の考え方の根本に溶け込んで潜在的に存在している。首相が理解でいないのは、儒教が日本人の精神に沈潜している事柄である。

 政治で大切なものは何かと弟子に問われ、孔子は、軍隊、食料、民衆からの信であると答えた。このうちどれかを捨てないといけないとすればどれか、との問いには、軍隊と答えた。それではと、食料と信とではどちらをとるかとの問いには、信と答えている。首相の場合は、大事な順に、軍隊、食料、信と孔子と全く逆になっているのだろう。

 信を形成するのは、自分に厳しく他人に寛容、公私混同はしない、などの自己規律が含まれるが、政治家になるとなぜか信が重要でなくなるらしい。選挙の時に頭を下げた分の元を取ろうと行為が卑しくなってしまうのではないかと思う。

 ここからは、いつもの通り報道では表面に出てこない視点で見てみる。

 霞ヶ関の7月の人事異動を見ると、首相をかばった財務省理財局長は国税庁長官に順当に出世し、方や文科省は停滞人事と論功行賞が露骨である。

 その中でも不思議なのは、文科大臣が次官、審議官、局長を厳重注意したことである。この意味合いは個人メモを流出させたことによるが、個人メモの作成者はおとがめなしとなっている。ここから先は、筆者の想像であり、前文科次官の口からはいえないと思うので私が代わって言おう。

 官邸は、文科省からの流出文章を怪文書とし、やがて個人メモとなったが、誰がどう見ても行政文書である。ではどうして個人メモなのか? それは、作成者が行政文書として宣言していないからだ。「小さな巨人」風に「俺の目を見て答えろ。200パーセントの確証をもって行政文書といえるんだな」と、こうは言われなかったかもしれないが、「相棒」の「岸部一徳」風に「これ、行政文書じゃないよね」くらいは、脅されただろう。ここで水谷豊演ずる「杉下右京」風に「はいぃ? ぼくは行政文書のつもりで書いたのですがねぇ。行政文書に見えませんか? 」などというとドラマと同じく左遷が待っている。

 この文書は、共有ファイルに収納されていたと聞くが、共有ファイルには、階層や仕事ごとの塊があり、適切な場所に格納する必要があるため、単純ミスで個人メモを共有ファイルに格納することはまずありえない。単純ミスならすぐに本人が削除するであろう。ここからは推測だが、この文書作成者を罰してしまうと、これは行政文書だと反論され、今までのストーリーがくずれてしまう。作った本人に個人メモと言わせてしまえば、個人の間違いに帰着され丸く収まる。

 話は変わるが、最近の加計問題についての攻略ポイントが少々ずれているように思う。

 根本的には、大学の設置と私学補助金を考察せねばならない。私学の助成金がなければ大学の設置を全くの自由に任せて自由競争にすればよい。ところが私学助成金を突っ込んだ私学が自由競争によってどんどん潰れては、税金の無駄な投入になってしまう。文科省には大学設置の岩盤規制との批判が集まっているが、この私学助成金の視点が抜けている。

 また、地方に獣医師になる公務員や家畜の獣医師が不足しているのを地方に獣医学部を作るという方法で緩和させる方法には無理がある。加計、官邸応援団は元愛媛県知事を支持しているようだが、仮に四国に獣医学部を作ってもペット医師として都会で開業を目指すのは明白であるから、都会で食い詰めた獣医師が集まるのを待つという悠長な方法になってしまう。それよりは待遇改善や給与で報いる方がよほど早いであろう。

 それから、国家戦略特区で公募をするという行為は何を意味しているかを考えれば、日本の国のためになる獣医学部を作ることを目指すということである。このためには条件を公平にしてアイデアの善し悪しで判断するということになる。ところが今回ネックになっているのは、来年(30年)4月の開学という誠に変な期限の設定の仕方である。この期限の設定の仕方がおかしいのは、文科省の設置の認可を待たずに準備しなければ、開学に間に合わないという誠に不合理な設定となっていることである。十数年来申請が受け付けられなかった獣医学部の新設がなぜ来年4月開学でなければならないのか。文科省の主張のように再来年の4月でも何ら問題はないし、再来年4月の方が、申請側も十分に準備ができる。今回のように認可もされていないのに工事に着工などということはあり得ない。今治市に関しても認可されていない大学に市所有の土地に建物を建てさせるなど地方公共団体としての判断過程を示せるのであろうか。市有地に何の根拠もなく工事に着工させるなど加計以外なら簡単に門前払いだ。公平性を示すことはまず無理だろう。今回の獣医学部の新設は、特区申請、大学設置審の文科審査という段階規制になっており、段階規制の手順を踏んでいるKS大学が著しく不利になるのは手続きの問題としておかしい。

 地方創生相、特区の座長、今治市、愛媛県など事前に審査結果を知っていたとしか思えない面々で、このあたりをたたけば必ずボロが出てくる。

 最後に首相に言おう。美しい国とは、人間関係を大切にする仁の心(儒教)、自然を恐れ敬い大切にする心(神道)、他人を思いやる慈悲の心(仏教)が心に沈潜している日本人のありようが美しい国日本を構成する要素である。信から一番遠い首相に送りたい。