月刊ライフビジョン | 論 壇

「保守論客の異論」に対する異論

奥井 禮喜

 朝日新聞9月25日の、「異論のススメ スペシャル」に、佐伯啓思氏による――「国民主権」の危うさ――と題する文章が掲載された。同氏は保守の立場から様々な事象を論じておられ、随時掲載すると紹介してある。

「異論のススメ」の要約

 佐伯氏の文章をわたし流に要約する。(趣旨をつかむために、順番が入れ替わっているところもある)

 福沢諭吉『文明諭之概略』(1875)の、――政府は大衆世論に従うほかないから、まずい政策でも世論に従う。行政がまずいのは世論のせいである。世論の非を正すのは学者(知識人)であるが、その本分を忘れて役人に利用されている。学者たるもの将来を見通せる大きな文明論に立って、世論の方向性を改めさせるべきである。――という趣旨を引用して佐伯氏の持論が展開される。
 同氏は、つねづね「民主主義の根本原理は国民主権にあり」という命題に疑いの念を持ってきたそうだ。

 ① 君主主権は、「君主」が絶対的権力を持つ政治である。国民主権とは、「国民」が絶対的権力を持つ政治である。ところが「国民」なる実体は、利益や思想や知識・関心・生活もまったく違った人々の集合体に過ぎない。

 ② そこで、「世論」なるものを「国民の意志」とみなすにしても、それに絶対的権力を付した点が問題である。

 ③ 世論は安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれで、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(空気)に左右される「マス・センティメント」である。

 ④ 絶対主義の君主主権が危なっかしいのであれば、国民主権もまた危ういものなのである。「主権」概念なるものこそが、とてつもない危険なものを内包しているように思われる。

 ⑤ (デモクラシーにおいて)議院内閣制は、国民が選出した議員・政党が、政策決定に決定的役割を担っている。この方式は、「民主主義の暴走への歯止め」である。議院内閣制は、民意や世論からは距離を取る。ために「民意の実現」が不十分だという批判がなされる。

 ⑥ 民意を実現すれば政治はうまくゆくというが、そうは思えない。今日の政治の混迷は将来へ向けた日本の方向がまったく見えないことに起因する。グローバリズム、経済成長主義、覇権安定による国際秩序、経済と環境の両立、リベラルな正義など、従来の価値観・方法が世界中で信頼を失っている。

 ⑦ むろんそんな大問題について、「民意」が答えを出せるはずもない。福沢流の将来を見通せる大きな文明論が必要であり、それは学者・知識人層の課題である。福沢は、知識人層が大衆世論に迎合していることを強く難じた。

「異論のススメ」に対する異論

 同氏の原稿はざっと4500字程度、新聞の1頁を堂々と占有している。周辺の知り合いに聞くと誰も読んでいない。わたしは、学者・知識人ではない1人として、この保守論客の異論についての異論を少し書きたい。

 a 『文明論之概略』にいう大衆世論の理解が要注意である。福沢がいう明治8年当時の大衆は、今日でいえば1割にも満たない、単純にいえば旧武士階級・少数富裕層であり、今日いうところの実業家・学者・知識人に相当するのであって、農工商の人々が含まれていないのは確実である。

 当時の政府が大衆世論に従うほかなかったのは、武士の反乱がまだ収まらず、維新体制が固まらない時期である。

 一方、今日の政府は国民大衆(圧倒的多数)の意見を聞いて政治をおこなっていない。政治家が「国民のみなさま」と持ち上げるのは選挙の投票までである。明治の大衆に比べると、今日の大衆は非常に多いが、政治に対する1人ひとりの影響力は、まさに投票する人の数が増えただけ減っている。

 同氏はまた、(数を頼んだ)「民主主義の暴走への歯止め」が議院内閣制であると論ずる。しかし、現実の日本政治は、議院内閣制を牛耳っている連中が「民主主義を無視して暴走」している。民主主義が暴走しているのではない。

 b 論旨を要約すれば、「世論に従うのが民主主義ということになっているが、世論は空気で右往左往する。政治は、そんな世論に右顧左眄するのではなく、学者・知識人が大きな文明論に立って、天下国家を論じて、大衆を引っ張れ」ということが言いたいらしい。

 これは、大学者に指摘してもらわねばならないほど、ありがたくない。そこらの居酒屋などで、しばしば耳にする怪気炎の1つ、いわゆる床屋政談並みである。朝日新聞が紙面を大きく提供するほどの内容であるかどうか。読者として、わたしは価値を感じない。

 c そもそも、世論なるものは、メディアの報道によって追従的に形成されている。大方の大衆は、自分の意見を積極的に発表する機会をほとんど持たない。自民党総裁選の報道にしても、メディアが、面白ネタ=視聴率対策として有効だと見込むから、大きな時間とスペースを投入している。極端な話、自民党内のこととして、せいぜい動向程度に報道するならば、それでお終いである。

 ところで、政治がおかしいのは、世論がけしからんのだろうか。政治家の汚職を批判する世論がまちがいではない。しかも、わが大衆はよほどのことがないかぎり、街頭デモにも参加しない。世論が、政治を右往左往させているような現実ではない。世論は政治家によって大方無視されている。

 ところが同氏は、政治がおかしくなるのは世論のせいだと批判する。政治家が政治をおかしくしていることに目をつむり、世論形成力のない大衆にその責任を押し付けるのは、論理的に誤っている。これでは同氏自身が、福沢論にある、世論の非を正す学者の本分を忘れ、役人に利用されていることにも通じる。

 学者・知識人が、(誤った)民意に同調せず、それを正すのはもちろん大切だ。しかし、実際に議会政治を担っている議員活動そのものへの問題意識がない。これらを重ねると、安倍・菅政治が生み出した、与党に対する国民の不信感をそらさせる意図が感じられると言えなくもない。

 d 世論が安定した常識に支えられていない、すなわち「マス・センティメント」になりやすい面は確かにあり得る。しかし、政治家が「パブリック・オピニオン」に反することを平然とおこなった、安倍・菅政治の9年間を考えれば、世論批判よりも、現実政治の不都合を批判するのが順序である。しかも、いま、マス・センティメント現象が表れてはいない。

 e 絶対主義の君主主権が危なっかしいのであれば、国民主権もまた危うい。「主権」概念なるものがとてつもない危険である云々――の指摘も、否定しない。というよりも、主権を「権力」と置いたほうがよろしい。

 まず、敗戦までの君主主権=天皇主権である。天皇個人が恣意的に権力行使したのではない。天皇を担いだ連中が好き放題の政治をおこなった。もちろん、15年におよぶ戦争をおこなったのは、世論の支持があったからである。その世論は、自然的に澎湃として沸いたのではなく、天皇を担ぐ連中によって、国家的規模で世論形成したのである。同氏の主張のように、権力は危険だ。

 次に、国民主権は戦後のことである。国民主権の1人ひとりが、ホッブス(1588~1679)が主張したように「万人敵対」関係にあれば、これは大変な混乱を招く。そこで議員内閣制を構築して、政治をおこなうのである。

 人々は人間の尊厳に基づく基本的人権を掲げた日本国憲法の「約束」によって生活している。くりかえすが、目下の政治的混乱を生じたのは、人々一般ではなく、政治家の所業によるものである。国民主権の「権力」を行使するのは政治家である。主権者の数が多くなったから危険性が高まったということはない。

 ここで問題になるのは、実際に「権力」を動かす政治家(個人・集団)である。あたかも「空気」のような世論が権力に直結するわけではない。同氏が指摘するように、議院内閣制が「民主主義の暴走の歯止め」であるとしても、目下の問題は、「議院内閣制(行使する政治家)が暴走」しているのであって、民主主義が暴走しているのではない。

 つまり、タイトルの「国民主権の危うさ」ではなく、君主主権であろうが、国民主権であろうが、実際に「政治権力を動かす連中が危うい」のである。

 いまの首相の権力は、以前の憲法とは異なって極めて大きい。その証拠に、安定した常識による「パブリック・オピニオン」としては、首相の犯罪が浮かび上がっていても、与党内部に自浄能力がない。次の首相を狙っている諸氏も、以前の首相の意向が支配しているらしく、「はっきりさせましょう」とは言わない。

 すなわち、民主的な選挙で選ばれた議員が政治をおこなうにしても、デモクラシーの仮装をして専制政治をおこなうことが十分可能である。

 佐伯氏という保守の論客が、何を保守したいのかは、新聞の文章からはわからない。タイトルに「国民主権の危うさ」とあるから、主権在民に問題意識を持っているのであろう。しかし、現在問題にすべきは、主権在民そのものではない。国民主権に乗っかって恣意的な政治をおこなっている政治家・政党にこそ問題がある。同氏の論法でいけば、「民主主義の暴走への歯止め」をするはずの議院内閣制で活動する政治家たちこそが、政治的危機の温床である。

 一般論でいえば、ふわふわした世論が政治を誤らせることはある。しかし、安倍・菅政治9年間の決算上に、選ばれるべき次期自民党総裁選の終盤で、一部政治家の不届きな所業を毅然として処理できない自民党の問題に焦点が当たっている時機に、「国民主権の危うさ」へと議論を進めるのは、当面する問題をすりかえるようなものである。

 「将来を見渡せる大きな文明論」について、文字通りの回答を出すということであれば、同氏が指摘するように「民意がそれなりの答えを出せるはずもない」だろう。ただし、1人の民意としての感想を述べさせてもらえば、いかに「学者・知識人といえども、それなりの答えを出せるはずがない」であろう。なぜなら、いままでそのような兆しはない。

 なるほど一般大衆は、大文明論を考案する力はないかもしれない。一方、大文明論を考案する学者・知識人において、人々が求めている「人間らしい生活」に立脚しないようなものを考案できるわけもない。1人ひとりが、自分の人生における主人公であり、それが尊重される社会をめざさねばならない。民意が目に見えないものであると同様、学者・知識人たるエリートの能力的可能性もまた、理屈では語れても表現することは難しい。

 大衆は太古の時代から自分で働いて生活してきた。実のところ、天下国家や大文明論など考えない人々こそが現実社会を支えているのである。「エリート=オピニオン」という図式が佐伯氏の文章からうかがわれるのは、残念ながら、もっとも愉快ならざる主張である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人