月刊ライフビジョン | 論 壇

生の美学としての自殺考

奥井 禮喜

夏目漱石『こゝろ』を読んで

 ライフビジョン学会の読書会で、夏目漱石(1867~1916)『こゝろ』を読んで考えたことを紹介したい。

 『こゝろ』は、1914年に『朝日新聞』に連載発表された。8月11日に連載が終わり、9月には単行本として、前年開店したばかりの岩波書店から自費出版に近い形で出版された。装丁も漱石さん、広告文も書いた。いわく、「自己の心を捕らえんと欲する人々に、人間の心を捕らえたる此(の)作物を奨む」とした。おおいに気合が入っている。漱石さんが葛藤して到達した個人主義精神である。文明開化以来、天狗にさらわれてジタバタしているかのような同時代人に対する沈思黙考の奨めである。

あらすじ

 主人公は大学卒業前後の「私」で、私がたまたま「先生」(と呼ぶ人物)に出会って、先生宅へ出入りするようになる。先生は高等遊民で、細君と睦まじい暮らしぶりである。しかし、先生の生き方はなぜか謎めいていて、私を通じて(読者に)好奇心と緊張感が与えられる。生き方を模索している私の期待に応えて、先生が長い手紙をくれる。それは、先生の遺書であった。遺書が、小説の半分以上を占める。実は、先生が真の主人公である。遺書が謎解きでもあるが、それ以上に、読者に――なにごとかの塊――を感じさせる。

 登場人物の行動も舞台も地味であるが、ミステリアスであって、サイコドラマである。遺書によって、先生がなぜ自殺するのかについての、過去のいきさつが綿々と綴られる。コナン・ドイル(1859~1930)の心理描写をさらに深めたような感じもする。味わい深い。未読の方には是非お読みいただきたい。

 遺書の内容を縮めると、

――下宿で、親友と同宿していた書生時代の先生は、親友が下宿のお嬢さんに思いを抱いていることを告白された。先生もまた思いを寄せている。先生は抜け駆けしてお嬢さんとの結婚の約束を得る。数日後、親友が自殺する。自殺の理由は一切書かれていないが、先生は、自分が裏切ったからだと確信し深く悔やむ。結婚後、先生は細君を愛し、細君もまた先生を愛している。しかし、先生には、2人の間につねに親友が存在するような切迫感がある。細君に、事情を話せばおそらく解決するだろうが、先生にはそれができない。思い悩んだ末、自殺を決意する。かくして、自殺する前に「私」にだけ遺書を認めた。――

 先生は自分の過去を、将来のある「私」(若者たち)のために役立てようと、遺書を書いた。『こゝろ』は、漱石さんが、人はいかに生きるべきかという命題を自殺という事件を通して展開した。小説ではあるが、哲学的大説が展開されている。これが、全体的な読後感である。

unconscious hypocrite としての人間

 前近代から近代へと移った明治時代は、容易に想像できないほど、大きな変革の時期であった。明治維新は下級武士のクーデターであり、フランスのように多くの血が流れる革命ではなかった。これは賢明であったともいえるが、一方で、圧倒的な人々が変革に直接参加しなかったから、次々に新しい制度が打ち出されても、根本的な理解ができにくい。たとえば、部落民を廃止したのは英明な政策であるが、一般の人々の差別意識が容易に克服できなかった。しかも、今日に至っても問題なしとは言えない。

 文明開化はモノ的文明開化であった。人間精神の開化は極めて遅れた。維新は光と影が極端に同居している。人々の意識革命を伴い、「人間の尊厳」を精神的柱として歩んでいた欧米とはまるで異なる。自前の民主主義意識は未熟である。

『こゝろ』が書かれたのは、明治自由民権運動が分解・分散して、いわゆる大正デモクラシーが開始する時期である。国家意識は、日清・日露戦争によっておおいに高まったものの、縦社会としての国家意識でしかない。横のつながりである、相互依存と相互協力、社会意識(public welfare)が育っていない。明治近代化は封建思想が色濃く残った。これもまた今日の大きな課題である。

 それは、人々が、自分自身とは何か、人生をいかに生きるべきかというような命題と対峙していない。漱石さんにとっても大きな問題意識であった。にもかかわらず、人々は戦争勝利で舞い上がっている。このままでは奇妙な国が出来上がると危惧したであろう。

 漱石さんの作風は、登場人物になりきり、人物のものの考え方や行動を追求するにある。とかく住みにくい世の中であるが、それを作っているのは1人ひとりである。住みやすい社会を作るためには、1人ひとりが成長するしかない。人が成長するためには、自分自身の反省を踏まえて、つねに自己研鑽する努力を重ねなければならない。漱石さんは、小説で大説を表現したのである。

 漱石さんの考え方は、学習院での講演、「私の個人主義」(1914)に明確である。自分自身が尊厳をもって、「我」をわがままとして「滅私」するのではなく、社会的に通用する「我」として育てる。自分が納得できる生き方を通して、すなわち「社会的自我」をもって1人の人間として立ち上がろう。個人主義に立脚した国家主義、世界主義の人たろうというにある。狭い意味の国粋主義ではない。

 しかし、当時の人々がこれを理解できたとは思いにくい。漱石さん(の思想)は、当時の人々より日本時間で100年先を生きている。いや、100年後の今日、漱石さんの思想が過去のものとなったかと考えると、漱石さんの思想は相変わらず最先端に位置している。あえて言えば、いまこそ『こゝろ』を読むべき時である。

 登場人物の「我」の核心に迫るのが、unconscious hypocrite(意識せざる偽善者)の視点である。偽善者は、他者に対するだけではなく、自分に対してもそうである。大方は、他者に厳しく、自分に甘い。自分自身に無意識=頓着しない。一方、真に自分として生きねばならないと思う真剣な人は、それを拒否する。自分自身の心と対決しなければ、自分として生きられないからだ。先生の人物像は、どこまでも偽善を排する人柄として描かれる。

 自己の精神の第一歩は、「真であるものを偽りであるものから区別」する。先生が自分の真実を追求した結果として自殺を選択する。そこに論理的な無理がないように、極力感情に走らないように慎重にペンを運ぶところに、一種のサイコドラマ的な雰囲気も出来上がった。

自殺について

 アルベール・カミュ(1913~1960)は、「真に重大な哲学的問題は1つしかない。人生が生きるに値するか否か」であると前提した。生きる理由などない。気がつけば生まれていた。人は生きるために生きている。人は幸い? にも、生きるための深い理由などを知ろうとせず、習慣的に生きている。生きる習慣が決定的に日常的であるのに比べると、思索する習慣は決定的に非日常的である。

 ところで、生きるに値しないから自殺を選択するのが正しいか。自分の英文学の生徒で、日光の華厳の滝で投身自殺した藤村操(1886~1903)のことが、漱石さんの念頭にあった。遺書には、「万有の真相はただ一言に悉くす。いわく、不可解」(一部)とある。単純に理解すれば、彼は、一切のものは不可解だから死ぬということになる。いかに哲学的に煩悶していたにせよ、自殺へ短絡することが正しいとは考えられない。

 生きるに値しないから自殺する――という論理が成立するとしても、もともと人生には正解がない。人生は虚無である。これも論理である。そうすると生きるに値しないから自殺するというのは決定的論理ではない。そこで、並みの人は、熟考によるのではなく、何かを機縁とした発作的行為ではないかと推量する。

 漱石さんが『こゝろ』に着手した背景には、家庭的に、才能的に、社会的にも恵まれている藤村青年の自殺があった。自殺は、肉体的死だけではなく、思考の破綻である。生きるために、人生に意義がなければならないとして、習慣的に生きていることを断ち切るのは、単に生の拒絶に過ぎないだろう。

 人生に意義があるか否か。人生は自分が作るものだとすれば、たくさん生きてみなければわからないという論理もまた成り立つ。カミュは、そこで「よりよく生きるのではなく、より多く生きよう」と1つの論(自殺拒否論)を立てた。「世界は不条理である。ならば、不条理に対する反抗が人生において貫かれたとき、その生涯は偉大である」と結論している。不条理を不条理として対峙し、妥協・和解するなというのである。

 それが『シジフォスの神話』に表現された。ギリシャ神話のコリント王シジフォス(Sisyphos)はゼウスに憎まれて、死後地獄で転がり落ちる大石を山頂へ運ぶ刑に処せられた。カミュは、山頂まで運んだ大石が落下していくと、また山を下っていく。終わりのない不条理に潰されない人間のたとえとして描いた。

 『こゝろ』には、先生が、乃木希典大将(1849~1912)が明治天皇の逝去の後に殉死したことに触れている。乃木大将は西南の役(1877)で敵に旗を取られて申し訳のために死なねばならぬと思いつつ生きてきたが、天皇の死によって死に時を得たという。先生は、それによって人生を自殺という形で閉じる決心をした。乃木大将の殉死には、当時、『白樺派』の新しい人々、志賀直哉(1883~1971)・武者小路実篤(1885~1976)・芥川龍之介(1892~1927)らが時代錯誤であるとして、厳しい批判を掲げた。

 漱石さんは、自殺によって人生を終えることを賛美しないが、現実にそのような人生もあることを認識している。先生は、細君への愛情と親友に対する慚愧の念の股裂き状態にある。自殺は、かつての自分の行いを罰するのである。また、新たに細君の愛情を裏切ることにもなる。だから、遺書には細君には次第を知らせないでくれと頼む。

 自分の行いが許せないから死をもって罰するのは、1つの選択肢であるが、それによって贖罪が成立するわけではない。親友が再生することはないからだ。漱石さんが先生の自殺をもって後から来る世代に伝えたかったのは、自分を徹底して反省する人間性を評価しつつも、人間はもともと無の存在であり、人生を作って行く気迫がないような生き方をしてはならぬと言いたいのである。それは、前述の「私の個人主義」にある生き方こそが漱石流だからである。

 さらに、「広瀬中佐の死」(1904)という文章がある。広瀬武夫少佐(殉職して中佐)は、日露戦争で旅順港閉塞船福井丸の船長であるが、敵の魚雷が命中して殉職した。残された遺書には、七生報国・一死心堅・再期成功・含笑上船の漢詩が残されており、世間は英雄として称えた。漱石さんは、この詩を月並み・陳套で、あたかも死を美化するような漢詩は作らない方がよいと厳しく批判した。

 一方、「佐久間艇長の遺書」(1910)という文章もある。佐久間勉大尉は潜水艦の艇長である。日本初開発の潜水艦で潜水訓練中に沈没し、艇員13名とともに殉職した。全員が最後まで持ち場で活動し続けた。艇長は、潜水艦の沈没がいかなる事情であるか、記録を書き続けた。漱石さんは、艇長しか書けないことを書いた。「やるべきことをやり通して死を迎えた。これこそ正しい死だ」と絶賛している。漱石さんの人生観には、「葉隠」(1716)のような死の美学? はない。

 生物である人間の死は必然であるが、大切なことは死の美学ではない。自分らしく、最後の最後まで生き抜く。『こゝろ』は自殺をモチーフとしているが、描いて、人々に伝えたかったのは、自殺そのものではなく、生き方である。明治の人々が死の美学を称えている時、漱石さんは生の美学をこそ掲げたのである。

則天去私の誤解

 「則天去私」は、漱石さんが最晩年の言葉である。――小さな自分を去って、自然に委ねて生きること、宗教的な悟りを意味すると考えられている。また、創作上、作家の小主観を挟まない無私の芸術を意味したものだとする見方もある(広辞苑)――というように解釈されている。

 漱石さんの近しい弟子の小宮豊隆(1884~1966)は、『こゝろ』の解説末尾で、漱石さんの心境を、「あれかこれかの世界ではなく、あれもこれもの世界、あきらめと慈悲との世界にはいる修行の道を歩く気になれるのであろう」と、漱石さんの心境について書いている。おそらく、これが、悟り云々なのであろうが、わたし(奥井)は、納得しかねる。

 漱石さんが「私の個人主義」講演も、それと同じ年に書いた『こゝろ』も、いわゆる悟りというような問題とは無関係である。

 「人間は自分がなろうとするものになる」という哲学に足をつけて、この世界に放り出された人間が、今度は自分で自分をいかに投企していくかという生き方論を展開しているのであって、『草枕』(1906)の画家のような浮世を超越した生き方を是としているのではない。

 『こゝろ』の先生は理知的であるにもかかわらず、どうしても過去の自分の所業を許せなかった。あえていえば、それは一方で、自分の生として追求するべき生き方の目標を探しえなかったのである。だから、「死んだつもりで自分の目標を探せ」というべきであるが、漱石さんは、それを読者の賢明な思索に委ねたのである。いわば先生は生き方の反面教師なのである。

 どこまでも生身の人間として、精一杯生きていくことが漱石さんの生き方であり、作風である。浮世に生きる以上、悟達によって浮世を抜け出るような主張をするわけがない。あえていえば、体調が勝れず、漱石さんが迫りくる死を意識したであろう。それを悩んでも仕方がない。運命である。それを則天去私としたのであって、悟りというように抽象化してしまうと、漱石さんの価値を否定するのと同じである。

 則天去私を悟り論と解釈した人々の思想は、よくも悪くも明治の人の考え方であり、「我」と格闘した漱石さんを十分に理解し得なかったのである。漱石さんの弟子の芥川龍之介は1927年、「我」の戦いに敗れた。漱石さんが100年先を歩み、そして、100年後にも先頭を歩んでいることを考えれば、悟り論こそが漱石さんの戦いの相手であったと言うべきである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人