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戦後の出発点は文化国家建設にあった

奥井 禮喜
昔は物を思わざりけり

 フランス文学者の渡辺一夫(1901~1975)は、随筆「老耄回顧」(1972)に、「昔は物を思わざりけり」と、自分を嘆き、鞭打つような言葉を書いた。

 夏目漱石、芥川龍之介、武者小路実篤、有島武郎、谷崎潤一郎、泉鏡花などを片っ端から読んで夢見るような文学少年が、旧制一高フランス語専修の生徒になり、東大フランス文学科に進み、辰野隆(1888~1964)の指導をうける。渡辺を生涯導いた辰野の言葉である。

 「好きなことを楽しく一所懸命にやるのだな。」

 「わかりやすい日本語に訳せないようなフランス文は、結局よく判っていないんだよ。」

 渡辺は大学2年で関東大震災(1923.9.1)に遭い、不逞鮮人事件や大杉栄虐殺事件で、投げかけられた問題に極度に当惑し、重苦しさを痛感した。ひたすら一所懸命、先生の言葉を杖として勉強していたが、時代から投げかけられたいろいろな問題を解かれず、納得できないままに通り過ぎた。それが「昔は物を思わざりけり」という苦い悔恨として刻印された。

 フランス留学した1931年に満州事変が始まった。「無名の師」(大義名分がない戦争)だという気持ちであり、中国人に会うのが辛かった。五・一五事件(1932)はパリで知り、帰国後ほどなく二・二六事件(1936)が起こった。中国での戦争は泥沼にはまり、国内では思想善導運動・日本精神作興運動が始まった。このような洗脳に対する批判的な言動は非国民とされた。そんな時代に少しは「物を思う」ようになったらしいと渡辺は振り返る。

 1941年、「無名の師」は、英米撃滅、一億総決起の破滅的大戦争に膨張する。偏狭と狂信の歓呼の声のなかで、「一所懸命に楽しく」洋書を読むのは非国民である。勉強が手につかない。生きること自体に難儀する。敗色濃くなり、本土決戦に備えて腹の足しになるかと赤土をかじってみたころ、東京は焼け野原になり、きのこ雲が立ち上がって、1945年8月15日敗戦を知らされた。

 当時を回顧して渡辺は、――「軍国日本」は一夜で「文化国家」に早変わりした――と呟く。そして、随筆を書いている時には、「経済大国」に変身を遂げていた。「何か大切なことが忘れ去られている」――文化国家になった時から、懐疑を知らぬ信念や、歴史を恐れない行動が見られた、と指摘するのであるが、21世紀のいまも、この事情が続いている。

 ここに紹介したのは『狂気について』(岩波文庫)に所蔵されている。原文は、まことにしみじみと、自分自身の来し方を振り返ったもので、みなさまにお読みいただければ要約の拙さからくる疑問が解消すると思う。

 『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(日本戦没学生記念会編)も紹介しておきたい。1949年に発表され、戦後平和運動に大きく貢献した本である。渡辺が旧版序文を書いた。戦没学生への追悼の念はもちろんだが、戦後に生きている人々への歴史的生き方を示している(と考えるからである)。

 「追いつめられた若い魂が、――自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを『散華』(戦死を桜花が散ることにたとえた)と思うように、訓練され、教育された」ことに、悲痛で暗澹としていると記す。悲痛・暗澹というが、それは許しがたい怒りの言葉である。

 「散華」とは嘘で固めた飾りである。これが敗戦までの文化である。いや、文化を騙った国家の本質である。「たたかひは創造の父、文化の母である」(国防の本義と其強化の提唱 陸軍パンフレット 1934.10.10)は、国家こそ絶対の立場で、その中枢が軍であり、「軍人とは死ぬことと見つけたり」という展望なき自暴自棄的諦念を創造と文化という美辞で飾り立てたのである。

 戦いすんで日が暮れて、民主主義が降ってきた。「散華」された方々を神様に奉り、いかにも、あなたがたの尊い犠牲を忘れませんと形だけ整えて、靖国に詣でる愛国者を気取る。敗戦から数年も過ぎない間に、人々は戦争をけろりと忘れ、不遜にも政争ばかりに熱を上げる政治家……これが、転身した文化国家というものか。渡辺は、「日本が明治時代にひき始めたびっこをまだひき続け、方向は異なっても、何かの方向に雪崩落ちないとどうにもならぬような気がしてならぬ」(老耄回顧)と書いた。随筆から半世紀後の今日、渡辺の危惧がそのまま登場しているのではあるまいか。

 わたしがこの本を初めて読んでから30年が過ぎたが、「一夜で文化国家に早変わり」したという言葉が、いつも頭から離れない。

文化国家論

 人間が暴力に走るのは、要するに野蛮であり、未熟であり、知性・理性が弱いからである。文化国家を建設するためには、1人ひとりが自分自身を啓蒙し、能力を開発促進しなければならない。

 文明開化とは、世の中が開けて生活が至便になることだが、生活が至便であっても世の中が開けているとは限らない。社会は、1人ひとりが集まって作っているのだから、いかに、各人の個性を発揮する場をたくさん作るようにするか。つねに気配りして自由闊達な社会全体のコミュニケーションを図らねばならない。

 19世紀のドイツは、ゲーテ(1749~1832)、フィヒテ(1762~1814)、フンボルト(1767~1835)の影響が大きかった。ゲーテは、「あらゆるものの中心は文化と野蛮」であるとした。野蛮は、粗削りの根源的な民族性であり、文化はそれが洗練されて、大きくは人類が共有する価値に育つとした。フィヒテやフンボルトは自我に注目し、自我が普遍的なものになるように、普遍的自我の大切さを主張した。開かれた世の中とは、このような状態をいうのである。

 明治の文明開化は、鎖国を解き先進国を追って猛然と前進したことを評価できるが、夏目漱石(1867~1916)が指摘したように、即物的模倣の域を出なかった。外発的であって、内発的でなかった。最大の模倣が先進列強の侵略的植民地主義であり、遅れて固まった明治ナショナリズムが、デモクラシーの芽を摘み取ってしまい、昭和軍国主義へ暴走した。

 戦後最初の東大総長・南原繁(1889~1974)は、ことあるごとに文化国家の大切さを説いた。敗戦までの軍事国家を否定し、日本国憲法を縦横に展開する文化国家として育たねばならない。文化国家とは平和に貢献するのであり、文化の創造・維持・発展を最高目的とする国を作ることである。

 敗戦直後の文化国家論は、その概念が明確とは言えないが、あきらかに軍事国家に対置したものであって、くれぐれも軍事国家は拒否するという意志を込めたものである。「たたかひは創造の父、文化の母」に対して展開するならば、「平和は創造の父、文化の母」とでもいうべきであった。

 フンボルトは、文化について――伝統的に広く、教育・学問・芸術であるとした。ここでいう教育は人格陶冶・道徳的成長をいうのであって、個人が自立・自律的に育とうとするのである。だから、国家が文化を制限・指導・振興することについては懐疑的であった。つまり、文化は1人ひとりが育つ、育てるものでなければならないのである。

 そこで、法治国家(当時は君主国家)と文化国家が共存することは、官僚的君主制が見返りを要求せずに、学問と精神の世界に過度の監督権を行使しないで、学問に惜しみない援助を与えることだという。1919年のワイマール憲法第142条には、「芸術、学問およびその教授は自由である。国はこれに保護を与え、その奨励に参与する」とされた。ワイマール憲法は「学問の自由」を明確に規定していた。これが、ナチによって踏みにじられたことは周知の通りである。

 最近の政府による日本学術会議会員任命拒否問題は、本質において、100年前ワイマール憲法をナチが反故にしたことと同質である。問題が地味ではあるけれども、菅氏はじめ論理的な説明はまったくできない。「学問の自由」を国家権力が奪おうとしている。多くは言わぬが、菅氏ら政治家は、権力だけに頼っている野蛮な種類の人々と親和性が高く、戦後の文化国家論者には遠い。

アナーキズム国家主義者

 菅氏ら自民党は戦前国家主義への舵取りに余念がない。これは、2012年に発表された自民党の「日本国憲法改正案」にたっぷり盛り込まれている。煎じ詰めれば、個人の尊厳(基本的人権)に反対する国家主義思想である。さすがに正面から国家主義を振りかざすのは憚れるから、目立たぬようにシロアリ作戦をとっている。シロアリが家屋を食いつぶすように、手を付けやすい所から憲法の民主主義をかじるのである。

 シロアリにやられないためには、市民1人ひとりが警戒・注意しなければならない。その柱が文化国家論である。1947年3月31日施行の教育基本法において、前文に、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかもゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」。そして、第1条で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的な精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあった。

 ここに盛り込まれた精神は、文化(国家)なるものが、なによりも「個人の尊厳」(基本的人権)に依拠しており、だから、文化は1人ひとりが育ち、育てるものだということを高らかに謳っている。敗戦までの文化とは正反対の文化である。(教育基本法は改定され、2006年12月22日に公布施行されたが、その経緯については、ここでは触れない)

 書かれたことが実現すればシロアリにやられることはない。しかし、ボンサンス(良識)は育ちにくく、「昔は物を思わざりけり」が現在進行中である。大きな嘘はバレないというが、自民党的腐敗堕落の本丸は、政財官癒着・汚職・議会軽視など目につきやすいものではなく、もっと大きなところで、愛国者どころか国民を根本的に裏切る行為である。

 他でもない、日米同盟論である。二国間軍事同盟が本質的に敵を作るのは昔から批判されている。もちろん、日米安保条約は隠しようのない軍事同盟であるが、日米同盟という表現で軍事を隠す。日米同盟自体がもっと大きな問題を包含している。客観的に、日米同盟は対等とは言えない。米国への従属を着々と進めている。つまり、軍事的従属のみではなく、国の主体性を失いつつ、いや、失っているではないか、という疑念である。

 それを隠蔽するためには、明確な敵が必要である。だから、中国包囲網を形成したのは米国に促されたのではなく、いまの政府自民党の本音である。日米同盟が進めば、政府は独立国の政府ではなくなるだろう。

 しかし、愛国者だらけの自民党がそんなことはないと誰でも考えるに違いない。そこで、果たして彼らが愛国者であろうかと問題意識をもってみる。愛国者が、自分から国のフリーハンドを失うような行為に走るだろうか。自民党愛国者論には大きな疑問符がつく。

 愛国者の仮面をかぶっている彼らの本質は何か? アナーキスト(無政府主義者)ではないか。アナーキズムは、一切の権威・国家を否定して、諸個人の自由を最重視し、それに基づく合意による社会をめざす。敗戦までは天皇が絶対権威・権力として君臨したから、左翼アナーキストは天皇制と戦った。そこで、アナーキストといえば左翼と信じている人が少なくないが、無政府主義には当然右翼も存在する。右翼は天皇を神と奉る。天皇は人智を超越した絶対であって、左翼のように人間社会の権威・権力とは考えない。つまり、そこには普通の意味での国家がない。神の国には政府などはどうでもよく、ひたすら神意に沿えばよろしいわけだ。かくして、戦前天皇制信者は右翼アナーキストである。

 敗戦で、天皇の権威・権力はGHQ(本体はアメリカ)に移った。1952年日本の独立後、GHQは日米安保条約という護符を介して権威・権力はアメリカに移ったわけである。自民党が右翼アナーキストであると仮定すれば、日米同盟(かつての神意と同質)下で、自分たち朋党の立場が維持されるならば、米国に従属させられようとも、愛国心とは矛盾しないというのであろう。

 政権を担う諸君がアナーキストであることに加えて、多くの国民がアパシー(政治的無関心)である。アパシーは、政治(権力)を意識しない意味において、アナーキズムと親和性が高い。かくして、わが国は、右翼アナーキストとアパシー的アナーキストが多数派を形成しているようである。無政府状態は、ファシズム(全体主義)と相性がよいという歴史的経験がある。

 戦後、文化国家をめざして歩んできたはずだが、どうやら、文化国家というにはまことに心細い地平に辿り着いたようである。しかも、自民党が選挙を支配し、議会を支配する。議論は空洞化する。議員は、人々の代表ではなく政党の代理人と化す。国家なるシステムは政党化して、政党政治は有名無実化する。自民党を朋党という所以である。

 民主制の選挙で選ばれた者たちが、憲法の限界を公然と無視して市民の自由や権利を奪う事態=反自由的デモクラシーが、昨今世界中で増殖しているが、日本も、自由と民主の普遍的価値観から逸脱していることと対峙せねばならない。

クリチカル・シンキング

 「俗、弁に惑う」(荘子)という。とかく、人の口先に惑わされるものだ。そこで「疑始に聞けり」(同上)、本当の道を知ろうと思えば、疑いをもつことから始めねばならない。

 西洋にはクリチカル・シンキング(批判的思考)の好ましい伝統がある。――ものごとの問題を特定し、適切に分析し、最適解を求める――単に批判するのではない、あら捜しでもない、人が陥りやすいバイアスを避けねばならない。

 狭い意味の政治に限らない。日本人はクリチカル・シンキングが極めて下手くそ、未熟である。目下の事態を立ち止まって考える。懐疑することが、日本的文化にとって喫緊の課題である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人