月刊ライフビジョン | 論 壇

満州事変90年に思う

奧井禮喜

現地軍がでっち上げた鉄路爆破

 1931年9月18日22時20分、中国遼寧省奉天駅(瀋陽)東北7.5kmの柳条湖、満鉄線路上において爆発が発生した。関東軍(日本軍)が防衛している満鉄線路上で火薬を爆発させたのは、関東軍自身であった。近くの北大営に駐屯していた中国東北軍(張学良の軍隊)の兵士を関東軍は攻撃し、19日朝までに、関東軍は北大営と奉天城を占領した。

 関東軍は、中国軍が線路を爆発したので応戦したと発表したが、28年に奉天に入ろうとしていた張作霖(1875~1928 張学良の親)の列車を爆破して死亡させたのと同様関東軍の謀略であった。真実が、日本の一般の人々にわかったのは、敗戦後の1956年であった。

 日本の対中国侵略政策は、日清戦争(1894~1895)勝利、日露戦争(1904~1905)勝利を経て大きく膨らんだ。この柳条湖事件が中国侵略の号砲であり、1937年7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が本格化した。中国大陸で動きが取れなくなった日本軍が南方侵略に舵を切り、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃で大東亜戦争に突入する。わが国が国を挙げて転落のスタートを切ったのが満州事変だともいえる。

 日本人は、歴史といえば概して1945年8月15日の敗戦を伝える昭和天皇のラジオ放送や、そこに至る7月24日ポツダム宣言、8月6日広島と9日長崎への原子爆弾投下、8日のソ連の対日参戦などから考えることが多い。なぜ敗戦という事態に至ったのかについて考えるためには、少なくとも明治近代化以来の大日本帝国の在り様から考えなければならない。

 今年が日中戦争の直接的画期となった満州事変から90年なので、歴史に線引きはできないが、今回は満州事変当時の日本的状況に絞って考えてみたい。

満蒙生命線論

 満州というのは、主として日本側の呼び方である。中国の東三省=遼寧・吉林・黒竜江と内蒙古を示す。満州における日本の最大の権益は満鉄問題であった。日露戦争において1905年ポーツマス条約を締結した。日露戦争は帝政ロシアに対する薄氷を踏む勝利であったが、日本は、ロシアから関東州租借地と南満州鉄道(満鉄)を譲渡させた。

 満鉄は、大連-奉天-長春の全長700㎞の鉄路を中心とする国策鉄道会社である。ロシアが清国(当時)から租借した関東州の期限は1898年(明治31)から25年間で1923年(大正12)、満鉄の営業期限は1903年から36年間で1939年(昭和14)とされていた。

 日本は、1915年第一次世界大戦で欧州勢が後退したのに乗じて、中国に21か条要求を押し付けて、この期限を99か年に延長させた。関東州の租借地は1997年まで、満鉄営業は2002年までとした。

 中国の人々は、1919年の五・四運動(北京に起こった学生運動-反帝国主義・反封建主義)以来、半植民地からの民族解放意識を高めていた。関税自主権、治外法権撤廃を求める声は非常に高まり、関東州と満鉄の回収も当然要求する。1つは、満鉄の独占的地位を打破するべく、東三省では日本の鉄道建設を拒否し、満鉄に並行して、1927年には打通線(打虎山-通遼)、29年には吉海線(吉林-海竜)を開通させた。満鉄と競合する作戦である。

 中国の鉄道攻勢に、世界恐慌も加わり、満鉄経営は大打撃を受けた。満州特産の大豆など農産物価格が暴落、鉄道運搬量が激減して満鉄は創業以来の経営不振に陥った。

 松岡洋右(1880~1946)は1927年から満鉄副総裁の任にあったが、30年2月総選挙で政友会(軍部との親密度が極めて高い)から出馬し当選、31年明けて早々の衆議院本会議で、浜口雄幸(1870~1931)民政党内閣の外相幣原喜重郎(1872~1861)に対する質問に立った。ここで、「満蒙はわが国の存亡にかかわる、わが国民の生命線である」と主張して、幣原の対中国外交が軟弱であり、絶対無為傍観主義であると痛罵した。

 たちまち「満蒙はわが国の生命線」が大流行語になる。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」という調子である。

まともな政治がおこなわれない

 関東軍を牛耳っていたのが石原莞爾(1889~1969)と板垣征四郎(1885~1948)コンビで、柳条湖事件の首謀者である。爆破事件直後の19日に政府は関東軍が怪しいと見ていたから、不拡大方針を取った。政府・軍部の方針は分裂する。陸軍は、朝鮮平壌混成第39旅団を中国領内へ越境出撃させた。20日、政府にたいして陸軍はクーデターの構えすらにおわせて強行方針を迫った。

 21日の閣議はまとまらなかったが、陸軍の権幕に押されて、事件を「事変」とする。21日には、「満州事変は自衛のため(の戦争)である」と対外発表した。戦争を認めたのであるが、宣戦布告する理由がない。宣戦布告なき戦争に突入したのである。

 関東軍は、10月2日、「満蒙を独立国として、わが保護のもとにおき、在満蒙各民族の平等なる発展を期す」とし、当時東北に勢力を有していた張学良(1901~2001)から、人々を守るのだと抗弁する。それが満州国設立へ向かうのである。

 10月29日、国際連盟理事会は、日本の自衛戦論は認められないとして、撤兵決議案を13:1で可決した。やがて日本が国際連盟を脱退する流れの1つの出来事である。

国民は真相を知らず

 満州事変の真相を、国民は知らなかった。新聞・ラジオは総力挙げて、日本の正当性を主張し、軍の大活躍! に拍手喝采する。なによりも中国を徹底的に侮蔑し、人々の憎悪心を煽った。わが生命線を絶とうとする奴らは絶対に許さないというわけである。報道については、軍発表は真実ではないというコメントが現地取材に入った記者らから漏れた事例があるが、注目する人は少ないし、なにしろ新聞・ラジオの宣伝が猛烈であった。

 大阪朝日新聞は、政府の圧力を受けて、10月10日の重役会議で、「国家重大事に処し、日本国民として軍部を支持し、国論の統一を図るのは当然、軍部の行動に関しては絶対批判非難を下さず極力これを支持する」とした。大阪毎日・東京日日新聞は、10月27日、「守れ満蒙-帝国の生命線」と大見出しを掲げ、4ページぶち抜き全面特集という力の入れ方であった。NHKは、「ラジオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起を促して世論の動向を指示するに努める」という次第であった。

石橋湛山の正論

 石橋湛山(1884~1973)は、満州事変の10年前から列強の真似をするべきではない、朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟をしろ、中国やシベリアに対する干渉を止めよ、「大日本主義の幻想」(1921)という論陣を張っていた。

 ――異民族支配は極めて困難である。警察・軍隊で抑えつけられない。本当に日本人が世界で活躍するためには「大日本主義を捨てよ」と核心を突いていた。資本を豊富にするには、平和主義により、国民の全力を学問・技術の研究と産業の進歩とに注ごう。兵営の代わりに学校を建て、軍艦の代わりに工場を設けよう。――

 満州事変に際しては、「中国の覚醒と統一国家の建設の要求を力で屈伏させるのは不可能である。許されない」と、極めて明快かつ適切な展望を語った。

 昨今のコロナ騒動にたとえれば、大事なことは、3T=Testing・Tracking・Tracingである。国がどこへ行こうとしているのか、何をやろうとしているのか、まともな1人の人間として国情を検査しなければならない。誰がウイルスに感染しているのかを発見し、隔離しなければならない。そして、感染者に接触した人を突き止める必要がある。しかし、3Tどころか、すでに満州事変当時の国内は戦争熱クラスター拡散状態であった。

 ウイルス菌はたしかに軍部であった。しかし、政治家も、報道も、各界リーダーも著しく感染症状を呈していた。1932年には五・一五事件、その衝撃冷めやらぬ間に1936年には二・二六事件、1937年には盧橋溝事件から日中戦争が本格化する。1940年には大政翼賛会——もはや、打つ手はないに等しい。

 1931年、人々の生活は追い込まれていた。大卒8千人強、就職できたのは3千人ほど、「大学はでたけれど」という言葉が大流行した。都会で仕事にありつけない人は田舎へ帰ったが、そこもまた異常事態であった。とりわけ東北北海道を中心に、農村は蚕繭の暴落、農作物価格の下落、ジャガイモを主食とできればまだよいほうで、青田売りは当然、負債は生活資金に十分回らない事情で、ついには夜逃げが後を絶たなかった。小作争議、労働争議は戦前の最高を記録するが、世の中は乱れに乱れた。

 そんな事情で、まことに嬉しくない反応であるが、戦争熱は生活に恵まれない層の人々ほど激しかったという記述も残る。

 歴史的に巨大な力が働いていたのかもしれない。その力が人々を知らず知らず自暴自棄パンデミックに放り込んでいた時代なのかもしれない。しかし、だからといって、そのような事態を歴史的に正当化すれば、それが「歴史は繰り返す」という救いがたい隘路にはまり込むだけである。

 『西洋の没落』を著したシュペングラー(1880~1936)は、第一次世界大戦から人類の滅亡を感じたかもしれない。彼に「観念の歴史はつねにその行程を歩むが、精神の歴史はつねに新しい」という言葉がある。

 社会の文化・文明や道徳的志向は野蛮人の世紀よりも大きく飛躍している。しかし、その社会に暮らす1人ひとりは、生まれたとき野蛮人から歩き出す。いかに、時代が進歩していようとも、1人ひとりは自分の責任において、まともな人になる努力をしなければならない。

 周りがそんな雰囲気だったから、わたし1人ではとても逆らえないというような自己を放棄した気持ちを捨てたい。本当のわたしが、いつも許せるわたしでありたい。おそらく誰もがそう願っているはずだ。「わたしでないわたし」などはドブへでも捨ててしまおう。まともな人であるようにしたい。これが満州事変のような事態を再び招かないための心意気ではあるまいか。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人