月刊ライフビジョン | 地域を生きる

「おうち余暇」について考える

薗田碩哉

 コロナ禍によって否定されたのは3密(密閉、密集、密着)と移動である。人が集まることが危険視され、生活の場を離れて出歩くことの自粛が求められた。われわれの余暇(レジャー)の中心にあったのがまさしく3密と移動であることを思い知らされた。映画、演劇、音楽、寄席からライブハウス、カフェ、バー、居酒屋…1つとして3密でないものはないし、ディズニーランドも動物園も水族館も、温泉観光も名所旧跡めぐりも移動を伴わずには実現できない。

 その代わりに推奨されたのは疎開(バラバラになること)と自閉である。なるべく人と会わないこと、やむを得ず外出するときはマスクで防御、知り合いに会ってもよそよそしく、そっぽを向いて言葉少なに語り、握手もせず、まかり間違ってもハグなどしないこと。この事態は否応なく「引きこもり」の再評価をもたらした。不登校の子どもたちや自室から出ようとしない若者たちの日常がまさに目指すべき生活スタイルの見本とされたのである。余暇もまた「おうち」で追求すべき課題となった。

 筆者のような年金暮らしの高齢者は、晴れれば庭仕事、雨が降れば書斎に引きこもって読書という晴耕雨読の毎日を余儀なくされた。多忙な壮年世代の人たちも突然降って湧いたような「コロナの休日」のもとで、オンライン仕事の合間には好きな本を手にしたり、人生のありように思いを致した人も少なくなかっただろう。移動性(モビリティ)の低下は、内面性や精神性への志向を生みだす。瞑想(メディテーション)や座禅は座り込んでじっと動かないことが前提になる。レジャーと言えば動き回ることが当然のように思われてきたが、カトリック哲学者のヨゼフ・ピーパーが言うように、究極の余暇は瞑想にこそあるのだ(『余暇と祝祭』)。

 コロナ禍のもと久しぶりに文学に触れてみた人も多いだろう。カミュの『ペスト』は題材が現在にぴったりなだけに急に売れ行きが伸びて100万部を超えたという。文学の強みは日常から一歩も動くことなく古今東西のあらゆる場所に魂のありかを移し、途方もない空想に身を任せることができる点にある。コロナをテーマにした作品もいち早く登場していて、東京オリンピックを乗っ取って、集まっていた各国の「抑圧者」たちを十把一からげに「自粛」するという痛快なお話もある。(鴻池留依「最期の自粛」『新潮』6月号)。

 楽器を演奏したり、絵を描いたり、ものづくりに励んだりするアートの世界も「おうち余暇」にふさわしい。音楽やアートが求める「美」こそは余暇の究極の同伴者である。これを行うには楽器を弾く、デッサンをして絵の具を塗る、素材を変形させて形を作るなどの「余暇能力」が必要であり、また、楽器やカンバスや工作道具などの「余暇装置」が手元になければできない。ここでは過去に行われた余暇投資の蓄積がものを言ってくる。

 「コロナ特需」として、マスクや消毒薬、通信機器などが売れに売れたのは当然だが、思いがけないものの需要が高まったという。「楽器」もその一つである。家で過ごす時間の使い方に窮して、昔取った杵柄の楽器演奏を思い出した人々がいるのである。この際、新しい楽器を購入しようという需要もあり、音を制御できる電子楽器を手に入れたいという向きも多かったという(電子ドラムというのがあって、物理的には小さな音しか出ないが電子的には凄まじい音をヘッドフォーンで聴くことができる)。

 ブリコラージュの追求もみられた。ブリコラージュとは「ありあわせの道具と材料とを用いて何かを作ること」(広辞苑)である。日曜大工のようなイメージだが、始めから計画され、手順や方法が明確な「仕事」ではなく、作りながら自由に改変して初めの目論見とは違ったものになったりする気ままな手作りである。コロナ禍のもとで多種多様に作られたマスクあたりを手始めに、ユニークな器用仕事の作品が生み出されてネットのページを賑わわせている。

 慌ただしいレジャーに代わって、「おうち」と近隣を拠点に「知」や「美」に関わる落ち着いた余暇が見直されたとしたら、コロナがもたらしたのは厄災ばかりではないと言ってもいいのではなかろうか。


【地域のスナップ】 散開田植え

 今年は雨がしっかり降って、里山の田んぼでは田植えらしい田植えができた。いつもならみんなが一線に並んで密着して植えるのだが、今年は縄張りだけ決めて自由に散開して植えるやり方にした。

薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。