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コロナ選挙の怪しいリーダーシップ

おかぼん

 通勤電車が少しずつ混んできた。人の動きが少しずつ以前に戻っていくのがよくわかる。唯一変わらないのは、夏を迎えてもほとんどの人がマスクをしている光景である。

 それにつけても、じわじわと感染者が増加する現象をどう捉えたらよいのであろうか。ある日突然感染者が急増して、あのときなぜ手を打たなかったのか、と後悔することがないことを祈るのみである。

 今日6月30日、本来なら自粛再要請の検討に入るべきところ、東京都はとうとう数値的な基準を設けないことにしてしまった。私はもちろん専門家ではないので、数値的基準による判断の是非についてはよくわからない。ただ一つ言えるのは、今まで数値を示してそれを根拠にいろいろな施策をやってきながら、それが思うような数値でなくなってくると一転、その基準をなかったことにしてしまうのはどういうことなのか。私には全く理解できない。

 普通に解釈すれば、今までのやり方が誤っていたことになる。それならそれで明確な謝罪がなければならない。なぜなら、自粛を誘導された結果、経済的に立ちゆかなくなった都民そして国民が多くいるのだから。

 明確な謝罪がないところをみるとこの推測は、あたっているかもしれない。ならば、東京都や政府は国民に何かを隠しているのであろう。それを公表したくないから、数値的な基準を設けないと解釈するのが自然である。

 太平洋戦争中、政府は4年連続で1,000人を超える死者を出した大地震の災害など、都合の悪い情報を国民に流さなかった。その結果8月15日まで、日本が負けることはないと信じる多くの国民がいた。時代は違うというかも知れない。しかし私はそうは思わない。

 強制ではない、あくまで自粛要請だと言いながら、暗黙の粛清圧力を感じるのは、特攻隊の志願制と余りにも酷似している。現代にも◯◯警察のような人間が現れるに至っては、それでも日本人か、と非国民呼ばわりされる時代の再来を危惧するのは私だけであろうか。

 ふるさと納税で泉佐野市が国に逆転勝訴した。国と地方は対等協力と言いながら、上下主従の行政指導を振りかざし、それに従わないものを力で従わせようとする総務省に対して、最高裁はよくぞ良識を示してくれた。これがまかり通れば、やんわり要請と言いながら実質強制と何ら変わらなくなってしまう。本質は新型コロナの自粛要請と何ら変わるものではない。そして要請だからと最後の責任は取らない。

 あの敗戦から75年、この国は一体何を学んだのだろうか。