月刊ライフビジョン | 家元登場

コロナの光冠

奥井禮喜
持たざる者にはいただく権利!?

 「本当に豊かな国というのは、国が貧乏でも国民が貧しくない国だ」と語ったのは、パーム・ダット(1896~1974)であった。誰もが知っているように明治以来敗戦までわが国は富国強兵であった。「国を富ませ、兵を強める」という意味である。福沢諭吉(1834~1901)は――世界の国ことごとく、人民恒の産を得て富国強兵天下一、文明開化の中心と名のみにあらず云々――と言った。わが国においては恒産(定まった財)を有する人民などは、ごく一握りであり圧倒的多数は素寒貧とそれに少し毛が生えた程度であった。富国の前提としての人々の衣食住が足りていない。直接他国へ侵略行動を起こした。持たざる国は、武力行使して持つ国からいただく権利があるという理論武装(?)である。少し考えるほどでもなく、この理論は強盗の論理である。仮に武力で財を獲得したとして国が富んだとしても、あまり心地よいものではない。その意味ではかの戦争に勝たなくてよかった。

励ましあって心を貴く

 国というものを考えてみると、容易に実体を掴めない。少なからぬ政治家が「国家国民のために粉骨砕身」を振り回す。国家というのは領土上の全国民のことであり、領土は人がそれを活用してこその価値であるから、煎じ詰めれば国民のために粉骨砕身するというのが正しい。ならば、愛国心とは正しくは「愛国民心」というべきだ。そこでパーム・ダットの言葉の含意がわかる。貧乏は財産なく収入が少なく暮らし向きが不自由である。貧困、困窮である。貧しくないといえば、もちろん貧乏でないという含意もあるが、単に経済的に困窮していなくても、心が貧しい、才能が貧しいという側面がある。古今東西、品位ある生き方としては、「暮らしは低く、心は貴く」と言い伝えてきた。子どものころ「貧乏は恥ずかしいことではない」という言葉をしばしば聞いた。社会全体が貧しい時代であったから、それを口にする大人たちは暗黙のうちに励まし合っていたのである。

照射された見たくない側面

 この間、内外にコロナで大騒動である。たぶん、どなた様も感じられたように、世界第3位の経済大国が、まことに心細い経済力である。人々の視界に入るのは光る側面が多い。実は暗い側面も見えてはいるけれど、見たくない「無意識」が作用して見えなくなっている。コロナ騒動によって見たくない側面が照射された。都知事選がどうなるかはわからないが、山本太郎・宇都宮健児両氏が共に、もっとも困っている人たちの立場で働くことを表明している。「暮らしは低く、心は貴く」であっても、暮らしが低すぎては心を失う。収入が少ないのが問題であるが、一所懸命働いていても簡単に解雇される。非正規社員が働く人の40%という雇用構造は心を失うことに多大な貢献をしている。現代版富国強兵(ポンチ絵流なら威嚇脅迫戦争ごっこ)が、現代版「素寒貧とそれに少し毛が生えた」人々によって支えられている。両氏の政治家としての視座は極めて大切だ。

手をさしのべる、それだけでも

 「困っている人に手をさしのべる」。言葉は極め付き平凡であるが、新鮮である。忘れていたことを思い出したような気がする。敗戦直後、わが民主主義がいちばん生き生きしていたという指摘を思い出す。ある先輩は、空襲後の焼け野原になった街でもらったおにぎりで空腹を押さえたことよりも、おにぎりに込められた人の心の温かみを何十年たっても懐かしく思い起こした。故郷は、心の温かさにこそあると確信して労働運動の世界へ飛び込んだ。政治家がしばしば「寄り添う」という言葉を使う。言葉の感じは温かいのだけれど、いかんせん聞く人のほとんど(支持者も含めて)が挨拶的使われ方をしていることを知っている。挨拶では困窮は解決しないのだ。コロナ禍での教訓――困っている人に手をさしのべる――ことを、政治家や企業・組織リーダーはもとより、1人ひとりの心構えにしよう。それが心のないウイルスに対する、人間の最大の橋頭保である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人