月刊ライフビジョン | 家元登場

本のチーズが好き

奧井禮喜

古書の匂い

 この秋は、神田の古書市を忘れていた。格別忙しくなかったはずなのだが、とにかく忘れた。たまたま新宿に出たら、駅前西口広場で古書市の最中だった。以前は、広場全部が展示場だったが、この数回は2/3程度に小さくなっている。出店者が減ったらしい。それでもなかなか盛況で、何か見つけたい気持ちが弾む。古書といっても美術工芸品のように格別の掘り出し物があるわけではないし、希少本を求めるのでもない。黴臭いというのか、古書特有の匂いが好きである。新刊書の張り切った印刷の匂いよりも古書のほうが身近に感じられる。傷んでしまっているのはよほどのことがない限り買わないが、新しい版のものよりも古い版のほうが好ましい。古書であっても定価より安いとばかりはいえない。古書店もよく勉強しておられて、絶版のものはかなり高価である。だから大当たりを期待するのではなく、ちょっと「いい気分」を味わいに行くのである。

些事観察

 それにわたしは文庫中心主義である。とくに岩波文庫を基本に探す。困ったことに、最近はほとんど欲しい本に当たらない。自分が課題意識をもっているものは大方入手しているからである。『同時代の作家たち』があった。作家は広津和郎さん(1891~1968)で、1949年8月17日に発生した東北本線松川駅近くでの列車転覆事件の弁護活動で有名である。1審、2審で有罪判決が出たが、裁判記録を緻密に読んで分析した広津さんの大活躍で63年に最高裁では全員無罪が確定した。これは実際超人的ですごいことなのであるが、人間広津の魅力が素晴らしい。素晴らしいといっても格別大向こうをうならせるタイプではなく、極めて地味である。文章も、大声ではなく小さな声でぼそぼそ語っている感じだ。観察眼の鋭さというのか、広津さんのペンになると、日常些事が忽然と輝く。他の人であれば見過ごしそうな話が立ち上がる。鋭く観察してやわらかく語るという感じである。

抱月の溜息

 たとえば島村抱月(1871~1918)の描写である。講義嫌いで、めったに講義しなかった抱月の言葉を書く。「デカダンというが、実際われわれは現代ではデカダンになる」、手紙をもらって返事を書こうと思いつつ明日にのばす。明日になると他の手紙がくる。まとめて書こうと思いつつ書かず、また次の手紙がくる。「1年、2年とこういうことが積み重なって行く。こうした小さなことが集まって生活を重くして行く。これも1つのディケイ(腐る)の形です」。広津さんはここから、抱月という孤独な生活者(を発見し)、「人生の消極面を見ながらも、そこへ足を運ばねばならない運命の人」という人物感を引き出す。生きることが憂鬱な重荷であるという抱月の溜息を聞きだすのである。大正時代は、明治以前からの義理と人情が、自由に生きたいという思いをつねに圧迫していた。新しい生き方を希った抱月の苦悩を短く的確に切り取っていると、わたしは思う。

流されない良識

 明治という時代は、立身出世が日本的人間像として高くそびえた時期である。ステレオタイプの人間像を追いかけることにのめり込める人はよろしい。一方、出世主義の空しさを痛感する人には肌が合わない。広津さんが記したものを読んで、わたしはしばしばハッとさせられる。広津さんは正面切って書いてはいないが。どこを読んでも自由に生きるために苦闘している人の姿が書かれている。広津さんは大正デモクラシー時代の精神を代表する1人である。作家、評論家という生活そのものもぬくぬくできない不安定な仕事であるが、時代・社会というものから片時も目を離していない。やがて極端な国粋主義が氾濫したときには、断固として時代に流されず、良識を維持すべしという有名な演説「散文精神」をおこなった。自分の生活を通してデモクラシーの成長発展のために尽力された。松川事件とがっぷり四つの取っ組み合いを貫いた大正デモクラシー精神の人であった。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人