月刊ライフビジョン | 家元登場

祖霊喪志

奧井禮喜

バーチャル法要

 大都市の墓地が不足している。お墓の管理主体は寺院・公営・民営などあるが、大都市では懐勘定をするだけでも入手しがたい。公営は競争率が高すぎる。東京では年間2万人ほど亡くなるが絶対的に供給が需要に追い付かないらしい。風光明媚な所などと注文をつけるならば、並みの人にはとても手が出ないだろう。と思っていたら、相当高額なお墓でも競争率が高いという。だからますます価格は高くなる。生きているうちは住宅事情に悩み、あの世へ行ってからもお墓に悩む。たまたま、後のほうは遺族が悩むわけで本人ではないとしても——ネット墓地なるものがあるそうで、パソコンや携帯画面に遺影や戒名・法名などが登場して、その場で敬虔なお祈りを捧げることができる。まあ、これならば遺族の遠隔地であってもちゃんと用が足せるというわけだ。ふるさと創生事業の1つに田舎のお墓にUターン、Iターンするという手も考えられようか。

斗筲の人

 『一年有半』は中江兆民(1847~1901)が85年前に著した本である。そのなかにお墓事情に対する意見がある。いわく――墓地がどんどん広がって宅地・耕地、生産地などを侵食する。このままでは生活圏が縮小する。そこで、葬儀の一切を火葬にして(当時はまだ火葬が少なかった)、骨と灰はまとめて海中に投機する。各人が亡くなった人を祀るには、遺骨を自宅に置いて、周辺を飾り、香華を手向け、敬虔に祈りを捧げれば十分である。だいたい、斗筲(とそう 器量が小さいこと)の人にして、いちいち碑に銘するごときは甚だおかしい云々。兆民先生のお説ごもっともだ。生が終われば誰もが地に還る。それで上等である。俗に、孝行をしたい時分に親はなし、墓に布団も着せられずともいう。孝行にせよ、愛情の吐露にせよ、存命中に尽くすのが筋道だ。尽くし足りなかった分を記念碑に投じるのは、経済効果はあるかもしれぬが、一種の玩物喪志みたいなものである。

糸平の天分

 兆民は、荼毘にふされて海中ではなく、青山墓地にある母親柳の墓の隣に埋葬された。兆民を慕う知友・門人が石碑を建てた。これはご本人の遺志ではないだろう。同時代に田中平八(1837~1883)がいた。長野県伊那に生まれ、横浜で糸屋平八店を経営、茶・生糸・洋銀などの貿易で稼ぎ巨万の財をなした。第百十二国立銀行を興した。明治の財界人出世組である。平八は「おれのために絶大の墓を建てろ」と遺言した。墨田区の梅若伝説で知られる木母寺境内に高さ6メートルの石碑が建てられた。碑銘は「天下之糸平」、伊藤博文(1841~1909)が揮毫した。内村鑑三(1861~1930)は、有名な講演『後世への最大遺物』(1934)のなかで、糸平のエピソードに触れて、財をなすGenius(天分)はたいしたものだが、果たして、糸平の事業が「後世への最大遺物」に値するかどうか。「天下之糸平」の修飾語にふさわしいだろうかと問いかけたのである。

後世への最大遺物

 次いで、鑑三は、英国の大天文学者ハーシャル(1792~1871)が青年時代に述べた言葉、「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくしていこうではないか」を紹介した。天分というものは、人それぞれが背負っている。人は生涯を通して天分を発揮させるべく宿命づけられている。蓄財は天分の発揮であるが、蓄財といっても大きく見ればフローすることに価値があるわけで、後世への最大遺物というには物足りない。まして墓碑を盛大にしたところで、それが後世の人々を鼓舞して、世の中をよくするものでもない。兆民の『一年有半』は、喉頭がんで余命1年と少しとの告知をうけたなかで書かれた。その精神はただ1つ。最後の最後まで生を愉快にせよというにある。その精神で、誰もがハ―シャル青年のような心がけで生き抜けば、それこそが「後世への最大遺物」となるだろう。見習うべき明治の心構えが、ここにある。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人