月刊ライフビジョン | 家元登場

高井教授の定年最終講義

奧井禮喜

人間の大きさに感嘆!した中国

 5月25日、「高井潔司桜美林大学教授の定年最終講義」をライフビジョン学会主催で開催した。高井さんとのお付き合いは30年近くになる。日中交流月刊誌「LOOK CHINA」を創刊したので、読売新聞記者として中国事情に詳しい高井さんにお話を聞いた。間もなく高井さんは北京支局長に就任され、北京事務所にお邪魔する機会を得た。1978年から中国は改革開放に舵を切り経済建設に邁進中であった。停電は少なくなっていたが、大方の事務所にはクーラーがなかった。巨大なビル群もない。90年に初めて訪中したが、首都空港を出て市内への道路は暗く、ほとんど街路灯がなかった。北京事務所にお邪魔したのはそれから数年後であって、ようやく改革開放の活力が見え始めていた。大昔、勝海舟が清国を訪れて、その巨大さに驚き、その懐で活躍する人士に接して人間の大きさにも感嘆した。高井さんは大中国を相手に数人のスタッフで大活躍中であった。

現場へ

 高井語録「権力闘争の憶測よりも、現場へ。社会の底流を見よ、感じよ。中国人と共に悩め、憂え」。これは、駆け出し社会部記者当時から常に追い求めてきた取材精神である。90年代後半の邦字紙は、いずれも、中国といえば権力闘争に結び付けて記事にしていた。96年、鄧小平氏が亡くなった時、他社はみな権力闘争再燃予想と報じた。高井さんは東京を説得して改革開放の流れは変わらないことを記事にした。異彩を放つ堂々たる記事であった。その拠って立つ確信は、中国民衆の気持ちを熟知していたからである。取材した事実に基づいて記事を書く。単純な言葉に思えるかもしれないが、人間の先入見は重たい。加えて記者といえども社内ヒエラルキーに縛られているから、まして読売新聞のように親分が君臨する場合、自由闊達に記事を書くのは容易ではない。99年、論説委員のポストを去って北海道大学へ教員として転身した。「私のメディア論」に拘るがゆえであった。

人間のあるところに政治あり

 わたしの友人で朝日新聞論説委員のナンバー2がいた。大阪へ出張した際、一杯飲もうやと誘われて、彼が行きつけの中之島界隈の小さなカウンターバーで杯を傾けた。日ごろから寡黙ではあるが、その日は特にだんまりで、話が弾まない。挙句は下手なカラオケを始める始末である。いささか、まいったなあ、と思い始めた。すでに飲み始めて4時間以上、彼がボソッと「記者を辞めようと思うんだ」。「なんで? あなたがトップに立つのを楽しみにしているのに」「社内政治に疲れた」「それでどうするの?」「大学教員になる」「大学だって学内政治がきついと聞いていますよ」というような会話だった。人間がいるところ、政治がない世界はない。高井さんは以来、20年間、北大、桜美林大学で教鞭を執り、メディア論を磨き鍛え続けてきた。リップマン(1884~1974)『世論』(1922)を愛読書とするのは、高井さんは世論を曇りなき目で見続けてきたのだから必然の書と言うべきだ。

事実は示唆され暴露される

 リップマンはいう。「真理には特殊な力があるから競り合った場合にはもっとも真理に近い意見が勝利を納めるというのは事実ではない」。「真実は労して獲得するものではなく、示唆され、暴露され、無料で提供されるものだという一般的思考(ではだめだ)」。気まぐれで一方的な読者と新聞の関係は不安定である。「ニュースと事実は別物である」などの記述に触れると、もう、これはどこまで行っても到達しない頂上を目指して登山するのと同じである。わたしは高井さんの話を聞きながら、ラスキン(1819~1900)『建築の七灯』をも想起した。その中の「ほとんどすべての古い仕事は骨折り仕事であった。われわれの仕事は全部粗悪なよりも未完成のほうがよい」。終わりなく、みずからを鍛え続ける。真実を探る行為は、畢竟、自分という人間を生涯徒弟奉公の徒とすることではないか。高井さんの講義に参加された方々を捉えて離さない高井さんの魅力はこの精神力だと思った。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人