家元登場

トロツキーの見識

 過激派?

 半世紀前になる。筆者は、5万人組合員を擁する組合本部で教育宣伝担当になった。機関紙は別の担当者がいてタブロイド版で旬間発行。当方は季刊雑誌、ニュース、ポスター、ステッカー、壁新聞などを一手に引き受ける。教育宣伝も機関紙も役員1人と女性書記1人ずつだから、忙しい。いずれも機関紙印刷の専門会社に手伝ってもらっていた。その会社は思想を持つ人々が多く、実に意気に感じて仕事を協働してくれた。その会社のYさんが初対面の打ち合わせに来られて、最初から意気投合し、盛り上がったところで、Yさん「あなたはトロツキストだと聞きましたが…」、当方「え、だれがそんなことを?」。Yさん「機関紙担当のIさんですよ」。当方「それは間違いだ。わたしはノンセクト・ラジカルです」。「ついでに言いますが、ラジカルというのは根源的という意味で使っています。過激派ではありません」。当時は、組合分野ではさまざまなセクト(思想傾向)が賑やかであった。

 穏健派?

 筆者は、誰にも遠慮なくものを言うし、組合大会では本部に質問意見をする。共産党のシンパではないが、まあ、左派と見られていた。しかし、トロツキストと言われたのは面食らった。それにトロツキーの理解をしている人がほとんどいなくて、いわば主流派に対する反主流派、穏健派に対する過激派みたいなイメージで使われていたからだ。筆者は高校時代から、民主主義にほれ込み、なんとしても民主主義を推進する1人になりたいと願っていた。組合というところは、討論が嵩じると「まあまあ」「穏便に」みたいな気風があって、若手としては食い足りない。キツイこと言う奴だと見られていたのが、トロツキストという表現になったようだ。トロツキーは民衆をとても大切にした人であるし、筆鋒・弁論ともに優れて、しかも的を射る。だから、筆者は単純に迷惑とは思わない。評価しすぎで、恥ずかしい。プーチンの馬鹿な戦争を見ていて、トロツキーを思い出したわけだ。

 透徹した人間観

 トロツキーについては長く誤解が支配していた。レーニンとトロツキーを仲たがい関係に見るのも誤解というよりターリン体制の意図的な宣伝であった。スターリンの粛清についてはすでに知られていたが、他国の革命の話を丁寧に勉強する人は少ない。おおかたは聞きかじりで、わけのわからぬ風船だけが膨らむ。生意気なことは言えない。筆者もさして知っていたわけではない。20代半ばまでいた職場のTさんが、某日、「トロツキー読んでるか」と言われる。もちろん読んでなんかいない。「たいした人だよ、読むなら貸すよ」というわけで拝借した本を読んだ。なるほど社会主義革命を推進した人ではあるが、民主主義のなんたるかをきっちり理解していることが印象として残った。そして、なによりも人間を透徹する視線が素晴らしい。組合の先輩が、「職場へ入りなさい」と言われる理由にも思い当たった。Tさんと故Yさんとの出会いがとても懐かしい。

 官僚主義の害毒!

 日本ではとくに誤解があるのが、プロレタリアート独裁だ。これは、スターリンのような独裁をいうのではなく、民主主義を市民としての権利の段階から、「人間としての権利=人間の尊厳」に高めるための方便である。いまの基本的人権は、市民としての段階であって、本来の人間としての尊厳にはとても手が届かない。社会主義が本当に達成された段階こそが「平等と自由」である。ロシア革命は、単にロシアだけの問題ではなく、世界の価値ある出来事である。しかし、現状変革には膨大な反作用が働く。事実、スターリンが台頭してレーニン、トロツキーが追い求めた理想からゴミ箱へ直行してしまった。その後、フルシチョフ、ゴルバチョフが大奮闘したが、作用反作用の法則はまことに冷徹で、ついに、プーチンというスターリンの出来損ないがロシアを迷走させてしまった。その本質中の本質は、「官僚主義」の跳梁跋扈の一語に尽きる。これが目下、筆者の認識である。


 ◆ 奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人