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父から継いだもの

永野俊雄

 1902年(明治35年)生まれの私の父は浅草新仲見世で、先代から続く漆器店を営んでいた。その父の唯一の趣味は山登りであった。単独で行ったり友人を誘って行ったり、時には鉄道会社が運営するハイキングの会に参加することもあった。また、登山に関する雑誌や山に関する本も多く読み、本棚に整理されていた。私は小学生の頃から、奥多摩、奥秩父などあちこちの山へ父に連れられて行った。時には妹が同行することもあった。

 父との山登りが度重なるにつれて、私も山登りが趣味になっていった。勉学の傍ら、友人を誘って奥秩父を縦走したり、時には単独行も行った。また、父の本棚から山に関する本を取り出して、著者の歩いた山旅の愉しみを追体験した。中でも、詩人・尾崎喜八の『山の絵本』、『雲と草原』、詩集『高層雲の下』などを読み、山旅の愉しみは単に山に登ることだけでなく、季節毎の風景を楽しみ、道中の樹木、花を観察し、鳥や虫の鳴き声を楽しむことであることを学んだ。詩人である尾崎喜八は、ロマン・ロランやヘルマン・ヘッセなど、ヨーロッパの文学や音楽に詳しく、この面でも刺激を受けた。尾崎喜八の影響を受け、私の最も好きなスポットは、八ヶ岳山麓の念場が原、野辺山の原になった。

 高校卒業までは受験勉強で山登りの余裕がなかったが、慶應義塾大学ではワンダーフォーゲル部に入り、南アルプスの塩見岳や福島県の吾妻山での合宿で、同好の志をもつ仲間と山登りを楽しんだ。キャンプファイアを囲んで、みんなと歌った山の歌やロシア民謡は今でも時々口ずさむことがある。5月、兄が大好きだった三社祭の期間、私はその喧騒を避けて八ヶ岳へ単独行をした際、雪渓を横断する時誤って足を滑らせ、九死に一生を得たこともある。

 結婚後は妻と山旅を楽しんだ。勤務していた百貨店の休日を利用し、日帰り、1泊二日の山旅を定年退職の頃まで行った。時には、父と三人で出かける事もあった。御岳山山麓の開田高原への旅は思い出深い。信濃の蕎麦の美味かったこと。

 妻と歩いた山旅を思い出すと、奥武蔵、奥多摩をはじめ霧ヶ峰、美ヶ原、志賀高原、杖突峠、苗場山などなど。尾崎喜八が翻訳したエミール・ジャヴェル「一登山家の思い出」から名前をとった霧ヶ峰の「ヒュッテ・ジャヴェル」に泊った。苗場山に登った時は、汗水たらして登ったあげく、風呂が無くて閉口した。私が最も好きな八ヶ岳山麓の野辺山、念場が原を歩いた時は清泉寮に泊り、朝食に出たポテトのスライスと玉ねぎのバター炒めがとても美味かったので、その後、何回も自宅で料理したことがある。

 私の住まいが西武線沿線にあるので、秩父方面へは度々訪れた。ハイキングを兼ねて行った「秩父札所巡り」では、34か所・全コースを乗り物を使わず歩いて回った。秩父の街を歩いた時は、桑の葉が生い茂る道を歩きながら、機織りの音が随所で聞こえた。あれは秩父銘仙を織る音だったろうか。

 山登りの途中の昼食時や峠での休憩の時に、リュックから取り出したコッヘルで沸かして飲んだコーヒーの味と香りを今でも忘れられない。眺めの良い場所で風景をスケッチもした。

 こうして私たちは長い間、あちこちの山旅を愉しんで来た。80歳台半ばに達したいま、私たちにはもう一度、山歩きをすることは難しくなってしまった。現在は時々、思い出話をしたり、テレビで「百名山」を観て楽しんでいる。

 こうして若い頃から足腰を鍛えて来たおかげで、今でも40分、50分のウォーキングを週2回のペースで行っている。これも、少年時代から父に連れられて行った山登りの習慣を身に付けたおかげだと思っている。その意味では私にとって「山旅の愉しみ」は、父から受け継いだ大事な遺産なのかも知れない。大いに感謝している。

 【私の生涯で出会ったヒト・コト・もの/1 】                                            永野俊雄  英語・英文学老年