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自民党総裁選を見て想うこと

渡邊隆之

 9月17日から続いていた自民党総裁選は、NHKや地上波の民放ワイドショーもちょっとしたお祭り騒ぎだった。事実上、次の総理大臣を決める選挙とのことで注目されていたわけだが、筆者はどうも腑に落ちない。

 日本国憲法を一度眺めていただきたい。わが憲法には「政党」に関する明文規定はない。一応、政党については私的結社扱いで、結社の自由(21条1項)にて消極的に保障されるにすぎない。自民党総裁選とは所詮、一私的結社のトップを誰にするかという内輪事にすぎない。

 確かに自民党は政権与党である。右から左まで考えの異なる人材も多く、各派閥の色も違う。この国の方向性を考える上で、それぞれの候補者の主張を聴いて将来の国政選挙の判断材料にしたいというのであればそれもよい。しかし、一政党の内輪の話を大々的に扱うのであれば、同時に他の政党の総裁選や党の政治主張・政策についても同様に取り上げなければ政治的に公平中立といえないのではないか。

 もっといえば、憲法上、国民に必要な法律を制定するのは「国会」である。国会議員の本来の職務は「国会で必要な法律を制定すること」である。政権与党が選んだ首相の責任追及逃れのために早々に国会を閉じ、憲法で明記された要件を満たす臨時国会(憲法53条)の要求を延々と拒んでおり違憲の疑いがある。憲法改正で緊急事態条項云々を言う前にさっさと国会を開いて、まずは今後のコロナ対策等山積みの重要案件について厚く審議すべきであろう。「閉会中審査はやっている」と西村経済再生担当大臣は話していたが、そうであれば、NHKや民放でどうしてそちらを放映しないのだろうか。「国会」は「国権の最高機関」と憲法に明記されているにもかかわらず、である。

 今回の総裁選で奇妙に感じた点はいくつもある。まず、推薦人の内訳である。1候補について推薦人20人が必要なのだというが、複数の派閥から割と均等に出ている。「自民党には幅広い考えの議員がいる」とよく強調される。派閥にはわりと似通った考えの議員が集まるはずである。とするならば、推薦人にもう少し偏りができても不思議はないような気がするのだが。落選したときに候補者が冷遇されるのを避けるために安全策を取っているのだろうかと詮索してみたくもなる。

 また、党風一新の会と称されるいわゆる若手議員の方たちが派閥に拘束されず総裁選への自由投票を求めたとのことだが、これはこの国の将来を想ってのことなのか、それとも次の選挙で戦いやすくするための自己保身のものなのか。背後で安倍氏や二階氏の影響力を考慮しての自由投票なら、現状と何も変わらないのではないか。

 もし、いわゆる若手議員の方たちが本当にこの国の将来について考えているのであれば、政府や所属政党に対してとるべき方策は今までにももっとあったはずだ。首相のおかしな答弁があれば、同じ所属政党の議員であろうと国政調査権(憲法62条)を行使したり、国会で内閣不信任決議案を提出したりすることもできた。確かに、衆議院では、内閣不信任決議が可決されれば、内閣総辞職か衆議院の解散となり議員の地位を失うこともある(憲法69条・7条)。しかし、参議院であれば解散はなく政治的責任追及にとどまり議員の地位は失わない。また、政府与党の方針にどうしても納得できなければ、離党して別の会派の議員達とこの国のために汗をかけばよかったのではないか。なぜなら国会議員も公務員であり国民全体の奉仕者であるし、その「国民」とは将来の国民をも含むからである。

 本来もっと光が当たるべき国会が注目されず、いわば場外乱闘ともいうべき総裁選ばかり注目されるのはとても残念だ。しかし、自民党総裁選の盛り上がりは、本当に国民の生活を考える政治家を国会に送り込まなかったり、野党を叱咤し強い政党に育ててこなかったりした有権者の責任でもある。

 今回の総裁選で唯一ほっとしたのは、告示直前に立候補した野田氏が少子化問題や小選挙区で重複立候補した場合の比例復活当選廃止など、庶民目線に近い問題提起がされていた点である。

 他の先進国に比べ日本の凋落ぶりは顕著である。貧困世帯も急増している。政府が繰り返していた「安心・安全」な暮らしを取り戻すべく、今回の総裁選で出た論点を整理して次の選挙や各方面への働きかけに役立てていきたいものである。