月刊ライフビジョン | 家元登場

五輪開催中止論

奧井禮喜

異議

 東京五輪を巡る社説は、こんな調子でやれるのかという調子の内容が多い。5月23日、信濃毎日新聞は、「東京五輪パラ大会 政府は中止を決断せよ」とズバリ切り込んだ。文章もよくできている。冒頭の一行に、「不安と緊張が覆う祭典を、ことほぐ気にはなれない」とある。これは五輪を期待している人々にも共感を得る表現であろう。最大の論点はコロナ感染対策、とりわけ医療崩壊の危惧である。自宅療養や入院待機中の死亡が、1月から、14都道府県で78人あった。5月12日時点で自宅療養者が34,537人ある。そして、10万人近い選手・関係者(メディア含む)に対して都が保健衛生支援拠点を設け、24時間体制で発熱外来検査をおこなう。医療従事者延べ7千人を動員組織する。そこで「選手は特権階級か」と切り込む。アスリートファースト論に対して真っ向異論を述べている。これは人情的反発を覚悟してあえて突っ込んだのである。

猜疑

 5月26日には、朝日新聞が「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」という社説を掲げた。五輪のスポンサーでもあるから、思い切った論説である。感染対策に目途が立たない、安全・安心が言葉だけで担保されないのは賭けである。復興五輪もコンパクト五輪も吹き飛んでいる。こんな五輪は祭典にはならないとする。とくに、IOCが強引に開催論を展開していることを批判するのも注目点である。日本が誘致した五輪パラ大会である。中止の場合の賠償問題もあるが、それ以上に国際的立場を考えれば、ここまで来て、中止の論説を展開するのは、やはり苦渋の決断である。時期が遅いではないかという意見もあるが、信毎と朝日が考え抜いて中止を明確に打ち出したことは評価するべきである。社説を読んだ人は、ここまでの推移を重ね合わせて、自分の見解と比較し、なにごとかを考えるに違いない。ひさびさに、骨のある論説だったので紹介した。

疑義  

 新聞の社説は、ジャーナリズムの最先端で活動する新聞社が自分の主張として掲げる論説である。世の中に数多の動きがあるなかで、これぞと思うものに絞り込み縦横無尽に主張を展開するのだから、これぞ新聞冥利に尽きるというべきだ。明治近代化以後に誕生した新聞各紙の社説は歴史資料としても極めて貴重である。しかし、実際に読者が性根を入れて社説を読むかというと、そうでもないらしい。華々しく新聞が登場した明治時代においても、福沢諭吉(1834~1901)が、「いかなる著者新聞社説を読み聞きするも蛙の面に水の聞き流し」と、どこかに書いていた。もちろん、これは読者レベルにかんする諭吉的皮肉である。当時の知識人の家庭では、家族それぞれが自分の主張にふさわしい新聞を購読していたという話もある。昨今はいかがだろうか。わたしは1980年代から主要全国紙の社説は毎日目を通す。しかし、ポンと膝を打つような論説が少ないと思う。

懐疑

 現代人は忙しい。かてて加えて日本的心情としては、「結論を言え」という気風が強い。だから、読者を主体的思索にいざなうのは、なかなか容易でない。そのために単純明快な主張を展開する傾向になるのかもしれない。たまに表現は地味だが、著者の論理展開にしみじみつくづく考えさせられる内容のものがある。このような論説が歓迎だ。単に、ある事柄に対する賛否が明快というだけではつまらない。自分が考えていたことの迂闊さ、未熟さに気づかせてくれるものがよろしい。ただし、生意気を言うようだが、なかなかそのような社説にお目にかからない。全体的に無難な内容が多くて、ピリッとした内容が少ない。もちろん、わが社説こそ天下一というような高踏的なものや、奇をてらうようなものがほしいのではない。ものごとについて、「本当に本当か」という、真摯な追求を感じさせてほしい。いうならば「懐疑」精神が貫かれていることを、なによりも期待する。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人