月刊ライフビジョン | 家元登場

自粛ダレ

奥井 禮喜 

新米のころ

 職場で、上司や先輩から、「不慣れなんだから失敗は織り込み済みだ。ただし、同じ失敗を繰り返すなよ」と言われた経験が、どなたさまにもあるのではなかろうか。わたしは直接言われた経験がないが、同期の友人が立ち飲みでしみじみ話してくれて、いたく気持ちを揺さぶられた記憶がある。当時の現場は、怒号罵声がしばしば聞こえた。なにしろ新米はドジするために仕事をしているようなもので、「アホ、危ない、ぼやぼやするな」「気合入っとらん」などの類は挨拶みたい! なものである。最初はビビるが馴れというものは恐ろしい、笑顔で「うむ、よくやった」と言われようものなら、逆に「あとが恐い」と勘繰ったりした。同じ失敗を繰り返すなというのは、陳腐な言葉である。言われるまでもない。そんなことは知ってはいるが、ついドジするのが丁稚奉公。しみじみ話した先輩の言葉は友人ばかりか、わたしの気持ちにも深く沁みて、ときどき思い出す。

自粛慣れ

 二度あることは三度ある。これもまた人生においてはしばしば体験しやすい。頭に叩き込んだと思っているが油断が忍び込むのは避けがたい。思うに、馴れというものがある。その日、その日のなすべきことが優先するから、なにか異常事態が発生した当初は緊張するのだが、その事態が続くと異常事態自体が日常になる。まことに人間は習慣の動物である。目下、コロナ感染拡大はお天気の挨拶なみである。自粛疲れという言葉が登場したのは1年前で、第1回目の! 緊急事態宣言が出された当時である。今年に入って2回目が出され、この4月25日に3回目となった。おかげで自粛疲れは自粛馴れとなり、緊急事態宣言に誰も驚かず、緊急事態宣言馴れという雰囲気である。馴れてしまえば、「問題がない」のと似たような事態になる。いや、人々が慌てず騒がず冷静に対応してくださるボンサンス(良識)は大したものだ。為政者諸君には感謝の気持ちを失念してもらいたくない。

三度目の緊急

 自粛は、一貫して大混乱なくおこなわれてきた。政治家などは、成果が出ないと文句を言う向きもあろうが、それは協力していただきながら人々に責任転嫁する恩知らずである。全体としてみれば、みなさまは粛々と自粛しておられる。自粛の効果が出ないなどとぼやくのは心得違いである。自粛とは、自分で自分のおこないを慎むことである。それは社会全体を慮って、自分のしたいことを抑圧し、あるいは克己しての振る舞いであるから、1.2億人の本来有する行動エネルギー総量を想像すれば大変な抑制力が働いている。緊急事態宣言を発する側の諸君は、人々が駆使している抑制力の大きさと、その意志の偉大さを決して軽視してはならない。政治家諸君が、人々の抑制力を生んでいる意志について、正面から理解していないように思えるのが、まことに遺憾である。同じ失敗を繰り返し、さらに3度目となったことは、政治家諸君の学習効果が生み出されていないからである。

自粛ダレ

 自粛は人々の内面的な行動原理である。為政者の権威・権力が自粛させているのではない。そもそも、権威・権力が表立つと自粛は強制になる。ボンサンスが支配している社会的気風はまことに好ましいが、強制によってボンサンスは輝きを失う。自粛はなにごとか行動を慎むのだから、減じられた行動の総量を考えると、すなわち社会全体の活力がおおいに減退している。自粛していても、それが人々の真に自発的・自主的意志に依拠しているのであれば、表面的行動の減少があっても、精神的活力はむしろ高揚しているはずである。「コロナを克服・勝利する」などの言葉が、人々に共有されているだろうか? その場しのぎの安物コピーを乱発しているだけであれば、まあ、政治家諸君のクビがつながるとしても、自粛によって社会全体の活力が失われている。しかも、これは貯蔵しておけない性質である。自粛がもたらす意味を考えない政治家が多いので、警告しておく次第だ。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人