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日本学術会議の任命権から思うこと

渡邊隆之

 連日マスコミ等で報道されているこの問題について。一連の報道の中で、いったいどの点が根本的に問題となるのか筆者自身もよく掴みきれていない。そこで、少し考えてみたい。

 日本学術会議は1949年1月に設立された。根拠法は、日本学術会議法である。同法の前文には「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」とある。

 この日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄にあり、関連経費は国庫の負担とされる。しかし、科学に関する一定事項については、その独立性が担保され、政府の諮問機関となっており、また、科学振興等について政府に勧告する権限もある。政府は、日本学術会議の求めに応じて、資料の提出、意見の開陳又は説明をすることができる(同法6条)となっている。

 日本学術会議の会員は210名、任期は6年で原則再任はない。3年ごとに半数が改選される。今回はその半数の105名の推薦のうち、99名は任命され、6名についての任命拒否の根拠がうやむやになっており、騒ぎになっているのである。

 「民主的コントロールを及ぼすべく、内閣総理大臣が任命拒否してどこが悪いのだ」との意見も見かけるのだが、日本学術会議法をよく読むと、同法の内閣総理大臣の任命権(同法7条2項)については、当初から任命拒否をできない規定ではないかと筆者は考える。

 なぜなら、その任命権については「同法17条の規定による(日本学術会議の)推薦に基づいて」内閣総理大臣が任命する、とあり、独立性を担保する日本学術会議の判断を尊重する趣旨と考えられるからである。

 また、同法には会員の辞職についての内閣総理大臣の承認(同法25条)や会員に不適当な行為がある場合に内閣総理大臣がその会員を退職させることのできる規定(同法26条)がある。前者については「日本学術会議の同意を得て」、後者については「日本学術会議の申出に基づき」できる構造になっている。これらについても、独立性の担保された日本学術会議の判断を尊重するものといえる。さらに、会員の辞職や会員の解職について規定がおかれているのは、当該会員に任命後不具合が生じた場合の規定であり、任命前の会員の事情を想定していない。任命の当初は、中曽根元首相の発言の通り、会員の任命は「形式的判断」と読むのが素直な解釈なのではないかと思うのである。

 内閣総理大臣は行政府の長であり、立法府の長ではない。行政も法律に拘束されるのだから、今回の任命拒否の一件についても、法律違反の疑いがある以上、政府は十分な釈明すべきであり、不具合があれば、国会での審議を経て法律の改正をすべきである。

 今回の任命拒否は日本学術会議の自律性を損なう政府の違法(または不当)な人事介入だとして、学問の自由(憲法23条)との関係で問題があるとの記事も目にする。

 学問の自由については、明治憲法では規定がなかった。しかし、1933年の滝川事件や1935年の天皇機関説事件など、学問の自由ないし学説の内容が直接に国家権力によって侵害された歴史を踏まえて、特に規定されたものである。学問の自由の内容としては、①学問研究の自由 ②研究発表の自由 ③教授の自由があり、また大学の自治も同条で保障される。自律性の担保されない学問研究等では、十分な研究等ができず、学問の自由の実質が損なわれることになりかねない。

 菅政権は安倍政権を継承するとのことだが、このような恣意的な解釈改憲は憲法99条の憲法尊重擁護義務に違反するのではないだろうか。

 ただ、筆者は学問の自由についても、公共の福祉(憲法12条、13条)による一定の制約があることは否定しない。先端的な科学技術は個人の尊厳を根底から損なう危険性のあるものもあるからである。特に、軍事転用しやすい技術については戦争の惨禍を繰り返さないよう、政府と日本学術会議で科学の平和利用についての方向性について十分な意見交換がなされることを望みたい。また、私たちは政府がおかしな方向に暴走しないよう注視したい。