論 考

連合結成30年の課題

 わが国の労働戦線統一は、戦前からの大悲願であった。

 1867年1月、全逓労組委員長の宝樹文彦氏が月刊『労働問題』(2月号)に投稿した「労働戦線統一と社会党政権のために」と題する論文が引き金になって、労働戦線統一の動きが始まった。当時のナショナルセンターは、総評420万人、同盟184万人、中立労連127万人、新産別7万人である。しかし、労働戦線統一第一幕は73年7月にいったん頓挫した。

 第二幕は、半年後73年11月に開始。ここで明確になったのは民間先行論である。官公労が強い影響力をもつ総評が労働戦線統一で足並みが揃わなかったので、民間先行論とは、極端にいえば、総評がまとまらなくても他の民間労組が大結集するという戦略でもあった。78年になると、同盟・ゼンセン・鉄鋼労連が民間先行統一論をぶち上げた。この間、76年には「3万円減税大行進」が展開され、民間先行論を運動面で高揚させた。

 1989年11月21日に念願の官民統一連合が発足した。それから30年目の節目が今年である。いま、労働運動を担っている世代には、労働戦線統一物語でしかなく、そのいきさつもほとんど知らないであろう。それは仕方がない。しかし、30年の連合の歴史については、きちんと運動の総括をやりたい。

 労働戦線統一はしたものの、連合アイデンティティの論議が当時ほとんどなされていない。極論すれば組織統一することに精一杯だったのであって、運動の統一面は極めて不十分であった。この30年は、その不十分さのままに活動してきたのである。仮に、先輩たちが連合運動モデルを作ってくれていたとしても、いま、それが十分に機能していると見る人は少ないだろう。

 連合結成当時の事情を知る1人として、わたしは、連合運動の最大の欠陥は、組合員参加、組合員に立脚した運動のモデルが構築されていないからだと言いたい。これは、連合結成の過程で完全に無視されていた問題であり、わたしに言わせれば、それこそが労働戦線統一の核心でなければならなかった。

 新聞などは、連合が政治的影響力を弱めているとか、原発問題で産別の意見が割れているとか派手な面を指摘するのであるが、それは、いわば形式である。その前に中身をまず固めねばならない。中身を作るのは組合員の世論である。まずは、世論が活発でなくてはいかん。連合は30年の再出発を、組合員の世論形成においてもらいたい。