週刊RO通信

誰もが哲学するべき時代

NO.1325

 少し前になるが、ある学者がどこかに「何が正当か、社会が判断できなくなった」と書いていた。こんな言葉にぶつかると、なんとなく! 「そうなんだよなあ」と共感して、妙に納得してしまう。

 そこで自問自答してみる。「社会とは何か?」—–社会なんてものはおよそつかみどころがない。「わたし」が存在するのみだ。社会なんてものは抽象にすぎない。何かを判断してくれる社会が存在するわけがない。張り切ってしゃしゃり出れば「わたし」が社会である。

 ところで、「わたし」は、以前、判断していたのであろうか? ひょっとすると、以前も判断せず、そして、いまも判断していないだけではないか。

 と、考えてみると、以前は判断していた人のなかに、どうも最近は世の中がおかしいと思う人が増えたのだろうか。あるいは、以前は判断していたのだが、ものごとを容易に判断できなくなったのだろうか。

 本当にそうなのであれば、「既存の権威が揺らいでいる」と考えるべきではなかろうか。「ゆらぎ」の時期は、変化(進歩)の好機であるといえなくもない。ただ、吹く風に「葦」しているだけではもったいない。

 いまはリアクションの時代であるともいえる。原理的な表現をするならば、歴史は変わるべくして変わる。もちろん、進化もあるし、退化もある。いずれに与するかの鍵を握るのは「わたし」である。

 人は日々の状況に暮らしている。面白いこと・愉快なこと、あるいは嫌なこと・不都合のいずれが多いかを考えてみると、後者が多いようでもある。それに埋没したり、潰されたりしないように、元気を発揮するのが大切だ。

 サー・B・ラッセル(1872~1970)は、次のような名言を残した。インタビュアーが「哲学とは何ですか?」と質問した。哲学者に哲学とは何だ? と質問する度胸はたいしたものだ。ラッセルは次のように応じた。

 「自転車でウインチェスターへ行こうとして道に迷った。たまたま出会った人にウインチェスターへの近道を尋ねたら、知らないといわれた。わたしは自分で行くしかなかった」

 なにやら禅問答、いや哲学問答らしいが、なるほど、たしかにそうだとすれば、門外漢にもわかるような心地になる。今日のランチは何にするか? 妻のご機嫌をどうとるか? 新人の取り扱いをどうするか? その他もろもろ、誰もが日々に哲学している次第である。

 「自己責任」論がはびこっている。1991年にバブルが崩壊した直後から、企業社会では盛んに自己責任がいわれるようになった。いままでは、会社が面倒見てきたが、これからは自分で面倒みろという。本当は、格別面倒みていたのではないのだが、まあ、ここでは横へ置く。

 いわば資本主義草創期のなんでもありみたいだ。ひたすら自由放任で、がんばれば報われるというが、さて、この間、報われた人が多かったか。そうであるなら、世の中はもっと元気溌剌しているはずである。

 自由放任が化粧直しして登場した。メリトクラシー(meritocracy)である。人の評価は、身分・家柄・学歴などではなく、本人の知能・努力・業績によるべきだとする。大変結構な考え方みたいである。

 そこでは成果を上げれば持ち上げられる。成果を上げることが善。上げられなければ悪。昨今、流行のパワーハラスメント、過労死しかねない長時間労働などの淵源をたどればメリトクラシーに到達する。

 がんばったから成果を上げた。成果が上がらないのは頑張らないからだという気風が染みつくところに、チームワークや協働は確立できない。その最大の特徴は人の消耗品化である。

 かつて人事管理の課題は、いかにして人を育てるかにあった。21世紀に入って、コスト削減の罠にはまって、企業の教育費はずいぶん少なくなっている。人を育てる気風がない企業が隆々発展するわけがない。

 変化は「ゆらぎ」において発生する。もちろん、変化は自然発生しない。「わたし」が社会である、と自負する人を増やさねばならない。日本の長期低落傾向を押しとどめて転換するのは、やはり、1人ひとりの「わたし」である。哲学する時代が来ているというべきだ。