週刊RO通信

歴史観を磨いて真贋を見ぬかねば

No.1201

 三浦周行(1871~1931)は歴史学者・日本法制史の開拓者として知られる。代表的著作『国史上の社会問題』(1920)は、わが国で、「社会史」としての歴史を初めて構築した作物として知られている。 

 概して、歴史は政治的な動向を拾い上げるから、いわば英雄豪傑の物語として受け止められやすい。同書はそうではなく、社会的に、社会史的に歴史を考えようとするものであった。 

 「社会の裏面や下層に流れている流れがみなぎってきて、いままで表面に勢力のあった上層が、それに押し流されて、暫時、下層と入れ替わる」という視点で歴史を考察した。つまり世論なるものの基層を研究する。 

 戦国時代といえば、応仁の乱(1467~77)以後、織田信長が天下統一に乗り出すまでの時期(16世紀後半)をいう。天下麻の如く乱れて、無節操・不規律だと決めつけるのではなく、社会制度上の一大革命であるとみる。 

 山城国一揆(1485)の農民たちが、対立抗争する畠山義就と政長の両軍を国外退去させ、8年間にわたって自治を維持した。これが自立・自治の社会的組織活動であり、新しい時代への息吹であったとした。 

 同書が書かれた1919年は、3月1日、日本の植民地下にあった朝鮮で「三・一独立運動」が起こった。また、中国北京で5月4日、日本の山東利権を承認した民国政府を批判する「五・四運動」が起こった。 

 三浦のモットーは「歴史事実の科学的批判」である。いわく、歴史を研究する(学ぶ)のは、郷愁のためてはなく、その原因を追究して、歴史的効果を検討して、未来のために有益な考え方にしようとするのである。 

 この歴史観は、今日では格別の驚きではないかもしれない。しかし、当時の日本的事情からすればまさに天地が入れ替わる。実際、三浦の死後の37年、文部省は『国体の本義』で神話による歴史をぶち上げたのである。 

 神話を歴史とするのだから、荒唐無稽の無茶苦茶である。しかも、それに異を唱えるような学説を主張すれば、政治的弾圧をくらったのだからとんでもない時代であった。いまも保守政治家にはその路線の人が少なくない。 

 三浦は、「すべての歴史事実は連続性をもっている」という。なるほど、年を取るとしばしば、「昔はこうではなかった」と嘆く向きが多いが、連続性を物差しにすれば、こうは言えなくなる。 

 わたしの活動領域でいえば、いまの労働組合活動は、わたしが現役だった40年前と比較すれば明らかに不活発で元気がない。活動は人である。組合役員に自分から手を上げない。口説かれてしぶしぶ役員になる。 

 ところで40年前、日本全国の組合で役員立候補者が定員を超えて選挙するという光景がほとんど見られなかった。さらに時間を戻して、1940年代後半、もっとも組合活動結成が盛んな時期でも、「役員のなり手がない」と困惑している組合がざっと半分近くあった。これが社会の基層らしい。 

 組合役員に限らず、みんなのために汗をかくという心がけの人が多いとは考えられない。それを思えば、550年も以前の山城国一揆の8年間が、いかにすごいことであったか! まさにデモクラシーのハシリである。 

 三浦『歴史と人物』(1916)の「史的人物の批判」に面白い話がある。 

 ――1654年、黄檗宗開祖隠元が明から布教のために長崎へ渡来し、大村侯から銀100枚を布施にもらった。隠元はそれで生魚を求め池へ放った。放生(ほうじょう 捕えた生き物を放つ)である。功徳で布教への同情を買おうとした。ところが全部死んで浮かんだ。隠元の通事(日本人)が「こんなことでは日本人は信仰せぬ」と嘲った。―― 

 三浦は、「放生は自家広告(=宣伝)である。古今、自家広告で当てた者が世間的に成功している。歴史上の人物も過半は自家広告に長じた人であったともいえる。目的がよければ自家広告もよろしいが、衆生済度(人々を救い悟らせる)が布教の方便だとわかればありがた味が減ずるではないか」云々。 

 世界各国到る所で、権力支配を目論む連中が俗世的衆生済度の自家広告を展開する。内外に問題山積のカオスだから、自家広告が過剰・過激になる。冷静に質問しても真っ当に応じない。そのような連中の奮闘があってますます視界五里霧中へ突き進む。心眼で真贋を見抜かにゃなりません。