論 考

機械装置は育てていくものだ

 原発事故で当時の経営者の責任を問うた刑事裁判で無罪判決が出た。東京地裁判決の結果義務や予見可能性についてさまざまな見解が出されている。

 巨大津波が来るなど予想しなかったのは、誰しものことである。震災発生時から、想定外か想定できたかの論議が重ねられた。

 判決は、政府の津波予測なるものが学界でも異論があったから、それをもって予見可能性の前提にはできないという立場である。

 刑事罰を問う場合、事前に罪状が明確に定めてあることが前提であるが、今回の裁判では、予想できたのにさぼって対策しなかったのかどうか。当時の経営陣に重大な過失があったのかどうかが論点となった。

 発生した結果の責任は間違いなく極めて重大であるから、そこから考えれば、判決は期待に外れた。裁判といえどもいろいろな見解の1つであり、絶対正しいといえないのは当然である。

 わたしは事故発生時から、非常用電源が発電所のなかで、もっとも低い位置にあるのを知って驚いた。津波を想定すれば、発電所のなかでいちばん高い位置に設置するのが設計の基本である。

 この設計は米国メーカーによるもので、当時、日本側にはそれを変更させることができなかったという説があるが、機械装置というものは、作ってしまえばおしまいではなく、使いながら育てていくものである。

 巨大津波が来るかどうかの認識が争点ではあるが、その前に、発電所全体の設計として非常識な実態がずっと放置されていたことが、わたしは依然として疑問である。ユーザーだからといって、それを放置していた歴代の経営者のプロとしての責任は消えない。