週刊RO通信

日本人はコミュニケーションが未熟だ

NO.1320

 職場で「コミュニケーションが円滑でない」という見解をしばしば耳にする。うまくいっているという話はほとんど聞かない。「日本人のコミュニケーション能力が昔に比べて落ちた」という説もあるが、本当だろうか。

 敗戦まで、コミュニケーションという言葉は一般的でなかった。

 わたしの高校時代は1960年から62年である。弁論大会・討論大会が開催されたが、コミュニケーションという言葉に接した記憶がない。聞いても理解しなかったのかもしれないが——

 とにかく討論大会ともなればよどみなき口先三寸で相手の言葉の隙を突いて、はたまた揚げ足を取って相手を沈黙させれば勝ちである。

 筋の通らない理屈の押し付けにはブーイングが出るから、未熟なオツムではあったが、いかに筋立てた理屈をこねるかに腐心した。「筋を通す」という言葉は社会人になってからも、しばしば耳にした。

 仲間のたまり場であった喫茶店主人は、いつもわれわれ青年の談論風発を聴いておられた。わたし1人の時、「あんたの理屈は筋は通っているが、それだけじゃあかんのじゃないか」と言われた。貴重な指摘であった。

 なるほど、「知・情・意」という。相手の感情を無視してはいかんという意味だなと思い知った。ともすれば議論をしていると、理屈で勝ちたいという気分に支配されてしまう。とりあえず反省はしたのである。

 感情的になれば理性がどこかへ行ってしまう。「精神は自由によって成長し、屈従によって委縮する」(セネカ)という言葉の含意に気づくのは、はるか遠い後の話で、それもしばしば忘れてしまう。

 実は、自分が感情的になっていることすらもわかっていない。夢中になって、われを忘れる。自分が忘我状態になるのはよろしいとしても、議論している相手を忘れてしまうのは極めてまずい。

 昨今、各種ハラスメントが問題になっている。1970年代前後は、いまならハラスメント全盛! であったが、ハラスメントという「切り口」がなかった。それらは、戦前的思考と戦後的思考の衝突として現れていた。

 戦前の忠君愛国・滅私奉公と、戦後の個人主義の流れがくんずほぐれつやっていた。デートの約束がある若者が、終業前に残業せよと言われてカチンときて、上司・部下間のいさかいを起こしたものだ。

 これ、まさしくコミュニケーションの具体的演習なのであるが、まあ、誰もそんな具合には考えない。残業を命ずるほうも、断りたいほうも、それぞれにとって、わがほうの理屈がある。実際、いずれが絶対とはいえない。

 職場は、小さな摩擦・葛藤のくり返しである。そこで、上司は「たまにはノミニケーション」して、職場の人間関係維持を図ろうなどと考える。部下がそのような懐柔・慰撫作戦に乗らなくなったのは1980年代である。

 ノミニケーションというような単純素朴ではあるが、コミュニケーションの本道を無視した「職場的通念」が、それから30年を経た今日においても依然として残っている。コミュニケーションとは何かがわかっていない。

 コミュニケーションなる言葉も、戦後、アメリカ的機能主義的コミュニケーションとして広がった。いわく、人付き合いをいかに円滑にするかというような極めて低いレベルの問題認識である。

 もし、人間関係を四海波静かにしたいのであれば、人と人が接しないのがもっともよろしい。1990年代半ば以降、これが極めて強い傾向として現れた。必要がない限り個人商店の「殻」に閉じこもるわけだ。

 あるいは、コミュニケーションをさらに機能化した、コーチングのような似非コミュニケーションが登場した。ただし、これは前述のような「殻」を解きほぐす力を持っていない。

 「議論をかわす究極の目的は真理の究明である」(ソクラテス)。この考え方を当事者が共有しない限り、コミュニケーションは成り立たない。人間が社会を作った地点に立ち戻らねばならない。

 「始めにコミュニケーションありき」で、社会が形成された。日本人は昔からコミュニケーションが未熟なのである。コミュニケーション能力が昔に比べて落ちたのではなく、昔から進歩していないのである。