論 考

マクロン流を評価する

 corn(とうもろこし)には、音楽・映画や冗談に関して、おセンチな、退屈な、陳腐な、時代遅れのという意味がある。

 日米貿易が、トランプ氏の選挙を意識して決定されるというのは、まさしく「陳腐」「時代遅れ」の政治の私物化で、三文芝居を見せられては退屈だ。

 G7が共同声明をまとめ上げなかったのは、対立解消の努力を避けたから、G7の意義を失うという意見がある。なるほどその通りである。

 夏目漱石に「中身と形式」(1911)という講演がある。表面上きちんとまとまっていても、中身と異なっていたのではだめだという趣旨だ。

 先年の日本でのG7では、まとめあげたものの、中身は意味のないものだった。今回、マクロン氏が、あえて形式を整えることに労力をつぎ込まず、目下、ばらばらになっているG7の実情を浮かび上がらせたのは、危機感を表面化した意味で十分に意義がある。

 イランの外相を招き、その場で米国と対峙させられなかったが、後で、トランプ氏は数週間以内にロウハニ大統領と会談する用意があると語った。

 まあ、気まぐれで何を考えているかわからないトランプ氏のことではあるが、マクロン氏が1つの動きを作ったのは事実である。

 アマゾン火災に対して、G7各国が2000万ドル支援をすることも決めた。

 いまの世界が直面する危機状態を明確に指摘した意義において、マクロン流を評価するべきである。そして、これは臭いものに蓋をしてすませる日本流とは異なっているという学びを得なくてはならない。