論 考

拝謁記の流し読み感想

 田島道治(1885~1968)ノート・メモ「拝謁記」は、加藤恭子氏の研究で、知る人ぞ知る資料であるが、どかんと出されると、素人にも興味深い。

 わたしが再認識したのは、1928年6月4日の張作霖爆殺事件が、15年戦争(1931満州事変~1937支那事件~1945敗戦)への重大な位置を占めていたことだ。

 張作霖事件の真相を田中義一首相が知ったのが10月8日、事件から4か月もたっていた。12月24日に首謀者を厳然たる処分にすると上奏したものの、首謀者の関東軍参謀・河本大作大佐を第9師団司令部付きに転勤したのみ。

 昭和天皇が露骨に田中不信を表明したので、29年7月2日に田中内閣が総辞職した。あのとき、きちっと処分すれば、軍部独走に掉ささずにすんだという昭和天皇の悔しさがわかる。

 太平洋戦争を始めたのは近衛文麿首相だ、という指摘も妥当だ。

 第一次近衛内閣のとき、1937年の盧溝橋事件の処理を誤り、ずるずると日中戦争の泥沼にはまった。

 第二次近衛内閣のとき、40年9月23日に北部仏印に進駐し、9月23日に日独伊三国同盟を締結した。これ、十分に対米戦争の意志を示したのと同じである。近衛は「あてにならん」という言葉とかさねると、これまた昭和天皇の悔しさを感ずる。

 ところで第一次近衛内閣は、朝野を挙げて歓迎された。知識人はその知性に期待を寄せ、人々は、名門に、若さ・清新に、軍部はその右翼的主張を歓迎するという次第で近衛人気がおおいに高まった。

 昨今の言葉でいえばポピュリズムそのものの気風だった。

 いかなる政体であろうとも、煎じ詰めれば圧倒的多数の国民が、政治的理性を持ち、つねに意思表示をしなくてはならない。いまも、ポピュリズムそのものだが、当時はデモクラシーではなかった。

それを思えば、われわれは、当時の人々と同じ政治的態度であってはいけませんねえ。歴史は繰り返す--にしないように。