週刊RO通信

企業的合理主義だけでいいのか

NO.1313

 新聞を開くと、「トラックドライバーの過労死認定」の記事が飛び込んできた。ああ、やっぱりなあと思う。運送関係の長時間労働は以前から有名である。ドライバー不足が指摘されるが、だからといって生死をかけて働く理由にはならない。世の中、ものごとを考える順番が逆転している。

 足立区の運送会社で働いていたドライバーが、18年4月28日、致死性不整脈で亡くなった。遺族が川口労基署へ同9月6日に労災申請し、19年7月5日に認定された。菓子・加工食品・飲料配達などの業務で、死亡する前6か月の月残業は126時間から158時間であった。

 致死性不整脈というのは、脈拍が速すぎるとき心臓が麻痺して、血液循環機能が異変をきたして、数分で死に至る。いわゆる突然死である。

 驚いたのは、ドライバーとしての配送業務は運送会社の仕事で、荷物の積み下ろしは別会社(関連会社)の業務とされていた。表面的には本業と副業をやっていたことになる。仕事や時間は運送会社が管理していた。

 運送会社は3PL(3rd Party Logistics)企業である。この事業形態は運送会社や倉庫会社に多い。物流機能の全体または一部を第三の企業に委託する形である。積み下ろしが別会社というのは当然ありうるが、ドライバーは副業していたというよりも、1人で2社の社員を兼任していたのと同じだ。

 厚労省によると「労災認定では、複数社の労働時間は原則として合算しないが、雇い主が同一の場合は合算することがある」という。

 川口労基署は、実質的に雇い主が同一という判断をしたのであろう。しかし、名目であっても雇い主が別であれば、理屈上、副業扱いされて労災認定されないこともありうる。労働時間問題の抜け穴だ。

 報道が十分ではないので、運送会社が、実際の長時間労働を隠したり、残業代節約のために、3PL企業の特色を活用したのかどうか、そのあたりは目下不明である。副業をこのように活用できるという先進的事例! を提供したのは事実である。運送会社は優良企業として評価されているらしい。

 政府主導の「働き方の改革」は、職場段階では不評である。実際、過労死が問題になるような労働時間を定めたり、非正規労働者を固定するような怪しい同一労働・同一賃金論を打ち出しているから当然である。

 それにしても、依然として労働側に主体的な「働き方」を提唱する動きが見られない。「労働」とは何なのか? こんな抽象的な議論をしても意味がないと考えているのだろうか。これこそが出発点である。

 原則論をいえば、労働組合なのだから、いかなる働き方を推進するべきか。その基本姿勢を打ち立ててもらいたい。

 わたしが出会った人々は、誰もが、もっと自由にのびのび働きたいと語った。では、「自由にのびのび働くとはどういうことか」というテーマがある。もちろん仕事はメシの種である。しかし、メシの種論から一歩も踏み出さないのであれば、働く人が(昔の言葉では)賃金奴隷と化してしまう。

 自由に働くとは、1人ひとりが自分の思考に基づいて行動できることである。相変わらず過労死が問題になるが、一部の極端な事例ではない。労使対等が単なるお題目化しているのではなかろうか。労使協調は結果である。企業利益も結果である。働く過程をもっと大切にしなければならない。

 組合活動の元気がない。元気がないのは、組合に人々の意識や意見が集まっていないからである。執行部は、組合員が「笛吹けど踊らず」だと考えているかもしれないが、踊ろうにも共通のテーマが見えないのではないだろうか。職場での語らいが活発だという話はゼロではないが極めて少ない。

 語らいがないのに集団の活動が起こるだろうか。組合員は根元からのアパシー(無関心)ではない。アパシーは原因ではない、結果である。たまたま、アパシーという結果が出ているのだから、新たに働きかけよう。

 あらゆる領域において集団の力は個人の力を大きくしのぐ。しかし、1人が自分と向き合う精神においては、まちがいなく集団をしのぐ。

 1人ひとりが考える力をもって集団の運動にするのが組織活動である。連帯感がないから組織活力がないのではない。1人ひとりの考える力に働きかけないから連帯感が発生しないのである。関係者の奮起を望む。