週刊RO通信

「老後2000万円」問題の視点

NO.1309

 「老後2000万円必要」とした、金融審議会の「高齢社会における資産形成・管理」報告書を麻生氏が受け取らないという騒動は、検討すべき問題があるのに政治家がサボタージュしていることを浮き彫りにした。

 2004年の年金制度改革で、年金財政フレームは、長期的な給付と保険料負担を一定に均衡させた。これは年金の制度上の持続可能性をもたらすが、高齢者の生活が安定的に保障されることと同一ではない。

 国民年金の老齢基礎年金は満額で月額65000円である。これだけでは到底生活が維持できない。

 基礎年金は事業所得者を対象として作られた。自営業者は定年がある被用者と異なって、自分の引退を決められるし、事業資産を保有するという考え方であるが、「そこそこ」リッチに生活している人は多くはない。短時間労働者として働く人が増えている。基礎年金額の妥当性が大きく揺らいでいる。

 パートタイムで生計維持する人は3割、正規雇用を希望する非正規雇用者が4割程度いる。正規雇用への道は険しい。被用者保険に加入できない短時間労働者は400万人程度と推計されている。

 年金をもらっている人に限らず、老後2000万円不足するという数字の受け止め方は、自分がどのような立場にあるかによって、単純な理屈では片付かない問題の広がりがある。

 たとえば、現役であってもパートタイムで生計維持している人からすれば、老後に月50000円程度の不足どころの話ではない。だから、麻生氏は問題が拡散しないうちに始末したかったのであろう。

 政府からすれば、十分な給付額と年金制度の維持可能性とは相反する。単純にいって給付額が低いほどありがたい。しかし、受給する1人ひとりにすれば、年金制度が永久に潰れなくても、暮らし向き不自由であればお話にならないのは当然の気持ちである。

 年金制度を維持するには、「出」を抑えて「入」を増やすに限る。支給額を引き下げ、支給開始年齢を引き上げれば「出」を抑えられる。一方、保険料を引き上げ、経済が活発化すれば「入」が増える。

 これは、いかなる年金制度であろうとも、算数の問題である。しかし、年金問題は算数ではない。年金は、「この国に生まれてよかった」という、愛国心を形成する仕組みでなければならない。

 そこには、単に政府と国民という関係だけではなく、国民相互の連帯という大きな課題がある。国民1人ひとりが、お互いに支え合うという気風こそが、年金問題(社会保障)の核心である。

 わが国の社会保障制度は、1874年の恤救規則に始まる。恤救、すなわち、救い、恵むのであり、施しである。貧困者救済は国・社会がおこなうべきものではなく、人民の情誼による。それが及ばない場合に国が施すとした。

 恤救対象者は、廃疾、70歳以上の重病・老衰、疾病で労働不可、13歳以下の幼弱者で極貧の独身者とされていた。

 その一方で、1875年には軍人・官吏の恩給が開始し、90年には軍人・官公吏・教員の恩給・退隠・遺族扶助が確立された。

 労働者年金保険法が1941年に始まり、44年に厚生年金保険法が成立した。養老年金は20年掛け金必要、遺族年金は20年以上被保険者でなければならない。積立金は1945年度末には14.6億円であった。敗戦1年前のこの制度の狙いは、掛け金を戦時財政に利用するにあった。

 敗戦後、自由権・参政権に加えて、失業・貧困・労働条件の悪化などから社会的・経済的弱者を守るために保障する社会権が登場するが、この旗を政府が一所懸命に振ったという記憶は、わたしにはほとんどない。

 1970年代には労働組合が年金ストを打った。年金に限らず、社会保障を発展させていく力は、国民1人ひとりに委ねられている。政府のおカネで面倒みていただくのではない。国民1人ひとりが、お互いを支え合うために税金や各種保険料を活用するのである。

 今回の騒動が現状の年金制度を当然の前提として考えるだけなら無意味である。社会保障を柱とした国作りこそが大切なのだから。