週刊RO通信

解散への国民的心構え

NO.1305

 5月30日、安倍氏が経団連で、解散「風はきまぐれでコントロールできない」と語ったのは、かの原発事故後の「アンダー・コントロール」と同じく、まったく正反対のことを語っている。まあ、得意の絶頂らしい。

 朝日社説(6/1)は、「解散権をもてあそぶな」と批判した。首相職にある者が解散権を自分の自由に扱うなという主張は当然であるが、これだけでは政界の本質がきちんと押さえられていない。

 なぜなら、首相職にある者は常に虎視眈々と解散の機会を狙っている。世間常識では、解散は内閣が追い詰められたときであるが、それはきちんと仕事を優先している内閣の話である。権力亡者連中には通じない。

 いまの内閣は、議会の介入支配を極力避けて、権力支配を維持して恣意的な政策を展開したいのであって、解散は、内閣の権力維持のための道具に過ぎない。道具があっても使えなくて自滅した内閣はたくさんある。

 たとえば田中角栄がロッキード事件で逮捕されたときの三木武夫内閣は、国民に信を問うために解散したかった。しかし少数派閥であり、自民党内で三木おろしが画策されて、ついに断念せざるを得なかった。

 解散すれば三木内閣が支持されるのは必然的流れに見えた。自民党内部の他派閥は三木氏の下で活動したくないから、猛然と解散反対の行動を起こした。国民的人気や期待があったものの三木内閣は短命で終わった。

 強い内閣は自由自在に解散できる内閣である。というのは政治家においては常識中の常識の1つである。風をコントロールできないのではなく、風を巻き起こしている。彼らはいまが解散の好機だと踏んでいるからだ。

 政治家もまた、野心的で選挙に強い連中ほど解散歓迎である。最近は人材枯渇で、消費期限切れの伴食大臣が闊歩しているけれども、以前はそうではなかった。政治家として出世するには当選回数こそが金箔である。

 戦後政治において、自民党は大方の期間、与党として政治に君臨してきた。にもかかわらず5年以上の長期政権を担ったのは、吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎、いまの安倍晋三の5人でしかない。

 戦後74年間に首相に就任したのは33人である。平均すれば1人が2.2年という計算になる。まさしく「首相は1年、2年の使い捨て」だ。なぜこのような事態になるのか。自民党が下野したり、連立でなんとか持たせたりの期間はあるが、全体を眺めれば、単独では常に自民党は大政党であり、党内が一致結束箱弁当すれば内閣が右往左往することはない。

 首相が使い捨てされるのは党内派閥抗争に最大の理由があった。目下は、官僚が矜持も恥も外聞もなく政権中枢にヒラメしている事情だから、内閣と官僚の共同体は、政治家連中の力を完全に凌駕している。

 もともと、そこらの政治家が束になっても官僚を動かすのは容易ではない。それを曲がりなりにも派閥力で拮抗させていたのであるが、いまや、派閥力は見る影もない。そもそも行政改革とは政治家が官僚を動かすことだった。

 かつて派閥は諸悪の根源と目された。ことあるごとに派閥に対する世間の風当たりが強かった。派閥を支えたのは一にも二にも資金力である。その力は政党助成金によって崩壊させられた。誰もが首相の顔色をうかがう。

 数は力なりの派閥が力を失えば、政権中枢による一本釣りだ。昔、政治家にとって「一匹狼」というのは一種の尊称であった。いまや、そんな形容詞は死語である。どこを見ても脂ぎったやわな羊の群れである。

 かくなる上は、1人の政治家として座布団から落ちこぼれないように頑張るしかない。当初、解散風を否定していた二階幹事長もまたヒラメ能力を発揮して風に漂いつつある。

 トランプ氏が日米貿易協議について、「8月には非常に良い発表ができるだろう」と発言した。参議院選挙後に発表することで安部内閣に恩を売ったとみる。与党は衆参予算委員会を開催させない。経済も内政も外交も、与党には心配が大きい。解散するならいましかないという見方が成り立つ。

 大きくみれば、いま、議会政治そのものが存在感を喪失している。これではデモクラシーではない。国民的心構えとして今後は、政局の不安定こそが真っ当な政治を復興させる、と考えねばならない。