週刊RO通信

高井教授の「私のメディア論」を聞いて

NO.1304

 5月25日、ライフビジョン学会は、「高井潔司桜美林大学教授定年最終講義」を開催した。高井さんは、『オンラインジャーナル・ライフビジョン』で人気のコラムを長期執筆中、ライフビジョン学会でしばしば講演してもらっている。自称ゼミ生が最終講義を企画した。

 高井さんは、1972年、読売新聞記者となり、イラン特派員、北京支局長を経て論説委員になり、転身して北海道大学、さらに桜美林大学で教鞭をとられた。講義に参加した方々は、ジャーナリスト、教え子、日中の研究仲間など多士済々の顔ぶれで、講義後の懇親会もおおいに盛り上がった。

 オンラインジャーナルで講義を紹介する予定である。ここでは、「私のメディア論」と題する高井さんの講義を聞いた感想を書く。

 駆け出しの記者時代から取材を徹底する努力を積み重ねた。ジャーナリスト魂に開眼していくプロセスは、あたかも『ウィルヘルムマイスターの徒弟時代』(ゲーテ、小宮豊隆訳)の新聞記者版である。

 取材するのは事実としての現象であって、そのまま真実ではない。イランや中国を日本的色眼鏡で見るような報道が少なくないから、記事にするまでの苦心は並大抵でない。これは、傍目にも十分に想像できる。

 1997年鄧小平死去の記事は、大方の報道では「すわ、政変?」というものだったが、読売は「大きな変動ない見通し」として、改革開放が着実に進むと伝えた。いずれが真実だったかはその後の歴史が証明している。現地・現場の記者の手腕が信頼されたからこその快挙であった。

 取材の性根は、日常生活における地道なインタビューの積み重ねである。その確信があればこそ、陥りやすい臆見(Doxa)を排することができる。それを限られた文字数で明晰かつ判明に記述する。これはカント哲学の実践である。哲学的実践に到達したジャーナリスト魂である。

 教壇への転身は、「いつまでも仮面記者・仮面論説委員でいたくない」という決断である。新聞社とても社内政治の嵐が吹きまくる。自由闊達にペンを走らせられないのであれば、仮面でいるしかない。あるいは自爆か転身か。仮面も自爆も納得できなければ転身するしかない。

 世間に目を転ずれば、ヒラメ社員、忖度官僚が花盛りだ。花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき――風情である。少数派が意思表示しないのであれば、少数派としての存在感すらない。これでは情けない。

 いかなる仕事であれ、創造する愉快がなければ不満が沈殿するのみである。面従腹背して出世街道ひた走る手もある。しかし、そのような文化が染みつく組織において上に立っても、突如蛮勇を揮えるものではない。組織文化というものはひとたび坂道を転げ始めると容易に方向転換できにくい。

 われわれは気が付けば生まれていた。知らずにある状況に投企されていた。そこから先は、自分が自分を投企するしかない。不都合な事情でジャーナリスト精神を潰してなるものか。だから思い切って転身した。なによりも、自己を投企する人生こそ愉快、爽快である。わが人生設計論が共鳴する。

 二葉亭四迷(1864~1909)は、ざっと130年ほど前に、「日本人は封建時代から空白である」と指摘した。なるほど、封建時代が長く続いたのも、要するに人心(空白)がそれを受け入れているからだ。その空白は、明治の四民平等になっても変わらなかった。

 それから満州事変、日中戦争、かの大戦で降参して、わが国はデモクラシー国家になった。なったのであって、したのではない。福沢諭吉(1834~1901)は、「武人の世界には離合集散、進退栄枯あるも、人民はただ黙してその成り行きを見るのみ」と指摘した。これ、敗戦後に果たして変わったのかどうか。

 日本人的空白を埋めるものは何か。高井さんが愛読している『世論』(リップマン)のジャーナリスト魂(それに対応する読者魂)を要約すれば、懐疑精神――本当に本当か! を1人ひとりが倦まず弛まず問い続けることであろう。新聞に世論を期待するのは封建時代の遺物、精神的空白である。

 懐疑し考えるのは口にするほどやさしくない。だから、学び続けなければならない。高井教授の定年最終講義は、わたしにとって1つのクラルテである。高井さんのますますのご活躍を期待いたします。