週刊RO通信

『戦後中国残留婦人考--問縁・愛縁』

NO.1302

 ドキュメンタリー映画『戦後中国残留婦人考 問縁・愛縁』の試写を見た。監督は北京電影学院の王之真教授、中国に留学している小林千恵さんが残留婦人の「いま」を訪ねて話を聞いた。鍵は、日中庶民の視点である。

 良永勢伊子著『忘れられた人々』(新風舎)に触発され、『帰ってきたおばあさん』の一人芝居で神田さち子さんが問題を訴え続ける活動も映し出す。記録は2,500時間に及び、王教授は資金捻出に大変な苦心をされた。

 中国残留日本人とは、1945年敗戦直前8月9日未明のソ連侵攻と関東軍(中国東北部駐屯日本陸軍)撤退によって、置き去りにされ、帰国の道を閉ざされて残留した日本人である。ようやく72年、日中国交回復が実現して残留日本人の帰国支援策が始まった。45年8月15日時点で満13歳以上を残留婦人、12歳以下を残留孤児としている。

 映画に登場する女性は87歳から97歳の8人である。国交回復後も自分の意思で中国に残った。帰国したい気持ちは強いが、去りがたい気持ちも強い。いま、日本と中国の「どちらも欲しい」と笑顔で語る。苦難苦闘のなにもかも吸収して克服した達観の表情に思えて、わたしは揺さぶられた。

 残留婦人、残留孤児が発生した歴史を極めて簡単に振り返る。

 1905年日露戦争後、日本は、関東州(遼東半島西端)を租借し、南満州鉄道(1906設立 大連・奉天・長春)701kmの経営権を獲った。(前者は97年まで、後者は2002年までの期限。敗戦後返還した)

 1915年、日本は対中国21か条の権益拡大要求をぶつけた。中国の不満が高まる。19年、北京で学生が決起し、民衆の反帝・反封建運動が全国的に拡大した。五・四運動である。

 28年、関東軍が、東北の軍閥張作霖を謀殺。31年、関東軍は満蒙問題解決方策大綱を策定。満蒙とは、奉天省・吉林省・黒竜江省・内蒙古の熱河省である。満蒙を日本の領土とし、日本の領土と勢力範囲の拡大を目論んだ。

 同1月23日、国会では松岡洋祐(政友会)が、「満蒙はわが国の存亡にかかわる」と主張した。同9月18日夜、奉天(瀋陽)北郊の柳条湖で関東軍が謀略で満鉄線路の一部を爆破、中国軍の仕業として攻撃した。

 満州事変である。国民は真相を戦後まで知らなかった。メディアは、「守れ満蒙、帝国の生命線」、「敵匪・匪賊」を罰せよと、排外的抗戦熱を煽った。中国に対する侮蔑と憎悪が燃え上がった。国内の不満の捌け口である。

 29年から世界大恐慌である。東大卒が4割しか就職できない。農村は天候異変続き、凶作、飢饉で筆舌に尽くしがたい窮乏であった。小作料・公租公課に苦しみ、木の実や草の芽の粥を啜る。郷里を捨てる人々も多かった。

 関東軍は、満蒙農民移民100万戸移住計画を立てた。当時農家は560万戸である。満蒙へ入植させて、同時に対ソ連の人の楯にする狙いである。

 32年3月1日、関東軍は満州国を押し立てた。いわく、「王道楽土」「五族協和」。王道楽土は王道に基づいて治められる安楽な土地の意味だ。五族共和は、辛亥革命当時、清朝の帝政を排して漢・満・蒙・チベット・ウイグルの五族による共和政体樹立をめざしたのであるが、関東軍はそれを拝借して、漢・満・蒙・朝鮮・日の五族協和とした。もちろん共和政体などではない。

 日本から満蒙へ入植した大方の人々は、国内での生活に追い込まれていた。軍は、中国農民から超安価で土地を強制買い上げて追い出す。恨みを買わないほうがおかしい。かくして関東軍は「匪賊討伐」に明け暮れる。中国人に対する侮蔑、優越感の誇示、果ては奴隷視もする気風が指摘されていた。

 37年から日中全面戦争に突入する。満州から華北、中国全体を支配し、アジアの覇権を握るという野望は、やがて粘り強い中国人の抗日戦争によって敗北することになる。45年8月8日、ヤルタ会談に基づいてソ連が対日宣戦布告、翌朝から入植していた人々が悲惨な状況に追い込まれた。

 「問縁・愛縁」という言葉に込められた意味は計り知れない。国の侵略と個人は違うというのは中国人の偉大な寛容である。それを切実に理解されたからこそ残留された方々は耐えられた。しかし、国内で「満蒙生命線」を叫んでいた気風との溝を、戦後に埋めたと、わたしは胸を張って言えない。いまの極端な戦前回帰の風潮を見ると尚更である。