週刊RO通信

元号に隠れているお話

NO.1297

 ものの本によると、元号は、前漢(前202~後8)の第7代皇帝・武帝といわれた劉徹(在位前141~前87)に始まる。武帝が、前140年に元号を「建元」としたのが、中国の最初の元号である。

 日本においては、中国(唐)に倣って「大化」(645)としたのが最初である。孝徳天皇(在位645654)の年号である。中大兄皇子(後の天智天皇)、豪族の中臣鎌足らが蘇我大臣家を滅ぼし、中央集権国家をスタートさせた。

 本家の中国では、清朝時代(16161912)まで元号が続く。孫文(18661925)を押し立てた辛亥革命によって封建時代に止めを刺す。最後の皇帝は清朝第12代の溥儀(19061967)で、最後の元号は「宣統」である。

 孫文は中華民国を建てた。辛亥革命は民主主義革命である。以後は、「民国」(1912から)である。中国共産党が1949年10月1日に内戦を制して、中華人民共和国が建国され、毛沢東(18931976)が国家主席に就任した。

 話を戻して武帝が、なぜ元号を制定したのかを考える。

 中国古代史を少したどる。漢の初代皇帝は劉邦(在前202~前195)で高祖と称された。劉邦は、国を統一して、漢朝を起こしたが、農村地主層に対しては非干渉主義であった。手が回らなかったのであろう。

 時間が過ぎるにしたがって、建国に功労のあった貴族や官僚が世襲化して仕事がきちんと進まない。勃興する財産家も加わり利権が絡む。大昔もいまも、権力と金力を巡って小才の利く連中が世の中を乱すわけだ。

 その時代には、たとえば司馬遷(前145~前86)が、誰でも知っている『史記』を書き、もう少し後には、外交使節の張騫(?~前114)が、悪戦苦闘の末、ローマを中心とする地中海世界との間に交通路を開いた。

 いつの時代にも、真っ当に仕事をする人はいるが、ひたすら私利私欲に励む連中のほうが、必ず政治的ツワモノであると言わざるを得ない。

 董仲舒(前179~前104)という儒者がいた。『春秋公羊伝』に精通しているので春秋博士とされた。彼は「天人合一論」を唱えた。――天と人は道を媒介してつながっている――という考えである。さらに、

 ――宇宙の支配者である天から命をうけた皇帝は、天の意志によって地上を支配する。皇帝は、自然現象の正常な遂行に対しても責任がある。皇帝が治政を誤れば天の怒りで天災が発生する。――

 武帝・劉徹は、この考えに飛びついた。皇帝の権威を神秘的にすることによって、わが治政は円滑に進むであろうというわけだ。だから、暦、時間の運行も皇帝の支配によるとしたのである。

 さて、今回の元号のアイデアになった大伴旅人の序文「初春令月 気淑風和」の元ネタは、張衡(78~139)「帰田賦」にある。彼は、学者であり、有能で強直な行政官でもあった。

 張衡は、詩も作ったが、何よりも渾天儀の発明で歴史に名を残す。球形の天体器械で、天体の位置を示し、天体の観測に使うものである。彼は、天文、歴算に優れ、さらには、円周率の近似値も算出していたそうだ。

 張衡の詩に「四愁詩」(四つの愁いの詩)がある。要旨をつまむと、「思う人は遠くに住んでいて、そこへ行くには障碍・難関が多く、とても行けない。行きたい、行けないという気持ちでうろうろするばかりだ」というコンテンツで、4つの詩が書かれている。

 表面的には恋する人を求めて懊悩する詩であるが、4つの詩に登場する恋人は、泰山(山東省)、桂林(広西省)、漢陽(甘粛省)、雁門(山西省)にいることになる。実は、あるべき政治を恋人に例えたのである。

 その思いが叶わぬことを、悩み苦しむ、悲しみ怨む、思い乱れる、怨みわずらうという言葉で括った。強直な行政官であった張衡はくだらない連中が政治に関わっていることを憤慨して恋歌に託した。「文弱浮華の貴族による政府に経綸なし」。金権腐敗のポピュリズム政治を突いたのである。

 今回、わが国の博学の士が引用した詩の元々の張衡は、単に純朴にして花鳥風月、佳人才子、鴛鴦的相聞歌を奏でて、きれいごとを並べる詩人ではなかった。政治の現状を愁い、悲憤慷慨する憂国の士であった。ポピュリズム政治家のポピュリズム的「和」に協賛するような人物ではなかったらしい。