日々道楽

冷話!

 津田左右吉(1873~1961)は『我が国民思想の研究』で、奈良時代あたりまでの外来文化が国民生活から遊離していたことを主張した。貴族だけのものじゃないかというわけである。

 これに対して和辻哲郎(1889~1960)は『日本精神史研究』において、当時の日本人は原始素朴であったことを認め、だからこそ伝統において自由であって、容易に自己を外来のものに没入しえた。『万葉集』には、作者不詳の単純な詠嘆が少なくない。だから民衆が文化に参与していたという主張である。

 和辻は、日本文化の根源たるものについて、「ゼロに何を掛けてもゼロ」であるとした。外来文化なくして日本文化が形成されなかったことは認める。外来文化という形を使って、日本人的感性を発揮したとするわけだ。

 トーマス・マン(1875~1955)は、「文化と文明は対立物である。文化は様式をもった野蛮状態であることはしばしばある。文明は理性である。それは、啓蒙、馴致、教化、懐疑、分解などを含む」と整理した。

 さらに、「精神は文明的で、市民的である。精神は衝動・情熱の反対者である」とした。マンの整理を援用すれば、『万葉集』に盛り込まれたものは、後に「日本的精神」と呼んだようなものではなく、純粋素朴な感性(心情)であった。

 「人々が美しく心を寄せ合うなかで文化が生まれる」と、安倍氏は語ったが、心を寄せ合わなくても、人々が暮らしている状態が文化である。安倍氏を筆頭に政治家が生み出している文化が、マンのいう「野蛮」方向であるのが、わたしはまことに残念至極である。