週刊RO通信

理性的な社会をめざそう

NO.1282

 東京新聞12月23日朝刊に、哲学者の内山節さんが、インターネットが浸透して、社会的コミュニケーションが進歩するかと期待したが、現実は感情的な言説が飛び交って厄介な事態になっていると慨嘆しておられる。

 アメリカでは大統領が率先して煽情的ツイートをやるし、日本では中・韓・北の人たちにヘイトスピーチが氾濫する。欧州でもナショナリズムが飛んだり跳ねたりしていて、なんともはや、というわけだ。

 人々の感情的な言説が理性的言説の上に突き出している。なぜかというと、理性的言説の人々はエリート階層であって、世界的にエリート階層に対する反発(反動)で感情的言説の氾濫を招いているという見立てである。

 そこで、「理性による支配的ではない協同の仕組みを、私たちは見つけ出さなければならなくなった」と結論している。世界的に感情的言説が氾濫しているという分析は、わたしも共感する。

 いま、世界が抱えている問題は、経済問題をはじめとして、さまざまな社会的差別である。ひどい国では、人々が国を捨てて他国へ逃散する事情である。差別をされている人々の怨嗟が膨張しているのは疑いない。

 世界は人の数ほど問題を抱えている。世界人口をみると、20世紀の入り口では16億人であった。20世紀半ばを過ぎた時点で30億人となり、2011年10月に70億人に到達した。世界ではピンとこないから日本でみる。前述の順番でいくと、5千万人、9.4千万人、1.2億人である。

 開高健(19301989)に『ずばり東京』(19631964)という、シャープなルポルタージュがある。その中の「戦後がよどむ上野駅」と題する章には、上野駅のトイレ事情が登場する。これは切実である。

 絶対数が足りず、始終掃除する人もてんてこ舞いである。トイレの落書きに悩まされる。壁をタイルにし、ドアをステンレスにしたら、釘でもって彫金する不心得者が登場した。スリが現金を抜いて、わに革の財布を壺に放り込む。水が詰まって流れなくなる。

 停車中の列車で落とす。枕木や砂利にしがみついて掃除が大変だ。駅長が線路床をコンクリートにして、ホースで一挙に流すようにしたいのが、一生の念願だと語ったとか。

 あれから半世紀、駅のトイレは非常に快適になった。落書きは見当たらない。スリも減った。線路に落とし物はもちろんない。まあ、いまでも混雑時に行列するけれども、昔日を思えば雲泥の差ではある。

 公衆トイレくらい、その社会の文化程度を示すものはない。だから、これだけならば大いに上等なのであるが、人々の生活感が充実しているかどうかを考えると、かなり怪しい。

 1980年代から過労死が定着している。死ななくても、かなりふうふういいつつ働いているであろうことは十分に推察できる。働き方や、職場風土に対する不満が頭を抑えつけられているのも事実である。

 哲学者の指摘するように、インターネットを通じて不満やうっぷんを晴らそうとしている可能性は否定できない。ただし、理性と感情をエリートとノンエリートに区分するべきかどうかは、大きな疑問である。

 たとえばパワハラをやる上司は、たぶん、さらに上の上司に対して不満を抱えているに違いない。パワハラをやる人の大方は、柔らかいパワハラであるところの、真綿で首を絞められているのではないのか。

 感情的になって、あちらこちらにうっぷん晴らしをしても、問題解決しないことくらいは、少し頭を冷やせばわかる。それがわからないのでは程度が低すぎるわけで、理性よりも感情を大切にするという論拠にはならない。

 さらにいえば、理性がいまのろくでもない働き方や職場風土を作っていると解釈するのは妥当ではない。上司と部下を並べた場合、上司が理性的だと断定できないからだ。思うに、いまの社会や職場を牛耳っているのは理性ではないのである。たとえば、政府のなすことが果たして理性的といえるか。

 思慮的に行動する結果は感情的にはならない。むしろ、いまの各界指導者層が理性を欠落しており、以て、社会に感情的暴発の危険性を高めていると考えねばならない。