週刊RO通信

日本の国際的信用を落とすのか

NO.1280

 改正入管難民法が12月8日0時に参議院法務委員会可決、4時に参議院本会議で可決された。数の力だけで可決するのだから、深夜にせずとも、いつでもやれるが、非力の野党がよく闘ったという構図である。

 しかし、問題はそんなことではない。政府・与党は、堂々たる議論ができず、野党の質問に真っ当に答えられず、ひたすら審議時間をしのいで、頃合いを図って採決しただけで、法律の中身がない。

 わたしは不足する労働力問題対策のみにかかわらず、観光客のみにかかわらず、諸外国の皆さまが日本をめざされることは本来歓迎する考え方である。つまり、素晴らしい国であれば必然的に皆さまが来日されるからだ。

 しかし、改正入管難民法案の審議過程で、そのような薫り高い議論などまったく見られなかった。「働く手足」を求めるだけで、人間を求めていないという、まことに不埒な考え方しか浮かび上がらない。

 たまたま8日は、帝国海軍の戦闘機が真珠湾を奇襲攻撃し、対米英蘭戦争を開始した1941年のその日である。開戦の報を知った諸外国の知識人は、日本人は「クレージー」だと指摘した。

 奇襲攻撃成功の報を知るや、あたかも「一億狂乱」のごとしであった。3年後には「一億玉砕」が幅をきかせた。45年8月15日敗戦、今度は「一億総ざんげ」という次第である。

 そして、軍国日本が一夜にして「文化国家」に生まれ変わったことになる。まるで障子紙を張り替えるがごとく、日本(人)のキャッチコピーが変幻自在にめまぐるしく変転したのである。いまは「文化国家」のはずである。

 戦後73年を経ても、性根が変わらないというべきか、国会論議の、いったいどこに「文化国家」らしさがみられるだろうか。まして、政治家・官僚において、法律というものが理解されているのだろうか。

 法は、当為規範の一つである。当為とは「なすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味している。そして、ある目的手段として要求されるものであって、つまり、ある法律は、その目的を具体的に闡明にしなければならない。

 ところが改正入管難民法においては、その中身、核心たることがなんら明確に提示されていない。中身の審議はほったらかして、法律の施行期日だけが決まっているという「がらんどう」法律である。

 先行している技能実習制度では、技能実習生が25.8万人おられるが、およそ7割の事業所で労働基準法関連の違反がある。

 アメリカ国務省の「人身取引年次報告書」において、2007~17年に連続して、日本の技能実習制度は「人身取引」であると批判されている。

 技能実習制度の建前は「国際貢献」である。しかし、国際貢献どころか、おいしい話で欺いて酷使するのだから、徴用工制度が看板を塗り替えて再登場していると批判されても仕方がない。

 技能実習制度で働くために来日されている皆さんは、民間事業者・ブローカーの食い物になっている。国の制度である。民間人が不埒であると、政府が素知らぬ顔ができるわけではない。それどころか、法務省が国会に提出した調査資料のインチキぶりは、国と業者の一蓮托生にみえる。

 新たに法律を作成するのであれば、前車の轍を踏まず、前車の覆るは後車の戒めとするのが「文化国家」というものだ。

 労働力人口減少対策だけではない。優秀な人材に来てほしいのは当然である。しかし、熟練・未熟練の定義すらできていない。外国人労働者の受け入れ態勢、日本語の教育、子弟の義務教育もまったく手付かずである。日本に留学しておられる方々が日本で就職されるのは3割程度でしかない。

 わたしは、諸外国の皆さまに日本国の人気が上がることを切に願う。それこそが「文化国家」というものである。とすれば、日本人社会が外国人に対する包容力を高めねばならない。それこそが国際化である。

 「日本で働く→日本が好きになる→長いおつきあいができる」という視点がない。技能実習制度の再現・拡大になる危惧は尽きない。経団連は2030年には外国人労働者400万人と予想するが、いまの政府・与党の方策の先には外国人労働者の暴動が発生しても不思議ではない。