論 考

12月8日

 1941年12月1日の御前会議で、12月8日の対米英蘭開戦が決定した。

 12月8日1時30分、ハワイのオアフ島の北方230カイリの洋上の旗艦赤城から、飛行隊長・淵田美津雄中佐が率いる第一次攻撃隊183機が発進、3時19分「全軍突撃せよ」の命令。22分「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)の暗号が打電された。

 真珠湾攻撃作戦計画は連合艦隊司令長官・山本五十六の発意でまとめられた。目的は「南方資源地域を攻略し、米艦隊撃墜配備を完了するまで米主力艦隊の来攻を阻止するとともに敵艦隊勢力の漸減を図る」云々とあった。

 しかし、司令長官山本自身が、この第一撃作戦しか確信なく、後は野となれ山となれの博打であることを熟知していた。

 まるで展望なしの開戦に突っ込んだ。

 リアルに考えたい。後には戦闘機もろとも突っ込む自殺特攻隊が作られたが、大きくみれば、日本全体が一億玉砕に向けて走り出した。

 奇襲成功が報じられるや日本全土で熱狂した。

 欧米の知識人は開戦を「クレージー」と称した。

 一億玉砕の前に、一億狂乱していた。