週刊RO通信

外国人労働者を招く資格ありや!

NO.1279

 明治時代の労働組合運動を引っ張った労働組合期成会が設立されたのが、1897年12月1日である。高野房太郎(18691904)や城常太郎(18631905)が主導した。2人とも40歳を前後して早逝した。

 ここでは城常太郎を紹介する。彼は12歳で父を失い、14歳のとき家屋全焼という過酷な少年時代であった。15歳で靴工の徒弟となる。よく耐え抜いて23歳で自前出店した。並大抵の努力ではなかっただろう。

 1888年、アメリカの靴業界視察のため単身サンフランシスコに渡った。ホテルで皿洗いしつつ、業界事情調査に励み、半年後には当地に自前の店を開いた。そして日本の仲間に現地事情報告を送った。

 89年には、靴工14名が城を頼って渡米した。当地は先発の中国人靴工排斥運動が燃え上がっていた。日本人靴工にも排斥運動の矛先が向くが、修理専門に特化して、かろうじて独立工場を開店した。

 90年、日本職工同盟会を立ち上げた。91年には、同志10人で労働義勇会を結成、日本の労働者に労働組合の必要性を訴える檄文を送った。これが、労働組合期成会の結成への端緒である。

 日本人職工移民が増え、93年には20店・60名を数えた。人種差別と排斥運動が続くなか、加州日本人靴工同盟会を立ち上げた。モットーは「親切・丁寧・期間厳守・安価・技術」で勝負の心意気だ。仲間の教育研修・直販店経営・材料共同購入も手掛けた。

 彼らの精神誠意は客を呼んだだけではなかった。排斥運動側がアメリカ人の皮革商に日本人との取引を断てと迫った際、商人は「非人道的である」として、直ちにその申し入れを拒絶したのである。

 96年、城は帰国し、理想的な工場建設をめざして活動を開始した。劣悪条件で働く靴工のためにストライキ指導もやった。

 97年4月6日、労働義勇会(職工義勇会)による『職工諸君に寄す』を工場労働者に配布した。6月25日、労働問題演説会を開催。聴衆1,200名を超えた。その年末、労働組合期成会の発足に至る。

 城常太郎の紹介をしたのは他でもない。入管法改正案をめぐる、わが議会の動向が気がかりだからである。

 日本が、国外から働きに来てもらえるような国になったのは結構なことだ。しかし、国外から働きに来られた人々が後顧の憂いなく安心して愉快に働ける環境ができているであろうか、それをめざしているだろうか。

 技能研修制度という、名目は上等だが、中身の伴わない制度の運用がなされている。失踪者が年間7,000人を超える。失踪ではない。正しくは緊急避難である。技能を伝授するどころか劣悪労働を強いている話が絶えない。

 今後5年間で労働人口が130万人不足するから手当をしたいとする。建設・介護・農業など14業種で働いてもらうという計画だが、頭数だけ揃えればすべてよしという、無責任な気風が主導していないか。

 介護分野の要員不足は深刻だ。最近、企業主導型保育所で園長含む7人が集団退職した事例もある。保育士資格をもつ人が少なくないから、おおいに宣伝して就職を期待する。しかし、劣悪な条件では、人が集まらない。

 外国から働きに来られる方は、名目が何であれ、自国内で生活が苦しいから他国で働こうとされる。なけなしのお金に、さらに工面して、仲介者にピンハネされながら必死で日本の職場をめざす。この苦渋を無視できるか。

 しかし、それで稼げるどころか、日々の生活すら苦しいという声が絶えない。多くの国が、政情不安で逃げ出した難民対策に苦労している。我が国の場合は、招いておいて日本で難民にするというユニークな対策である。

 政府は「移民政策ではない」と例によって官僚答弁を繰り返す。要は移民政策かどうかだけが問題なのではない。1人ひとりの生活の安定向上を考えないのであれば、端から失敗策、法案としてふさわしくない。

 労働力のみ期待して、人間としての尊厳に頭が回らないような政策しか打ち出せないのであれば、他国の人々を招く資格がない。

 もう1つ、このような考え方を作っている背景には、国内の働く人々の働き方総体に問題があるからではないのだろうか。