論 考

セレモニーなるもの

 昔々、わたしが属していた組合支部の組織担当の先輩は、とても儀式が好きだった。たとえば2千人の全組合員に集まってもらう全員集会などの執り行い方は、物々しくかつ重々しい。生来儀式嫌いのわたしは、お尻がこそばゆい。

 儀式にもったいをつけて、ありがたがらせる技術に長けていたのがヒトラー連中だと知ったのはだいぶ後の話である。

 もちろん先輩はヒトラーの真似をしたのではない。組合という組織を極めて大事に思っているから、自然にそのようになるのであった。

 春闘の勢いがあった時代で、産別主催の関西地区大決起集会へ行った。いまはないが、藤井寺球場で、ざっと3万人くらい集まった。

 その主催者挨拶に登場したのが、後に労働戦線統一のために民間労組会議を立ち上げた高畑敬一氏で、枕がいきなり、産別チームでソ連訪問した際のホテルのトイレットペーパーが固かったという体験談だ。参加者は大爆笑だった。

 ぐっとくだけて雰囲気は和気あいあい、式次第は盛り上がって閉会した。聴衆にサービスする精神が大成功した事例であった。

 我が家の儀式だから身の丈に合ったものにしたいという発言に、わたしは大いに共感する。