週刊RO通信

日本的衆愚政治におさらばしよう

NO.1277

 世間は、桜田某大臣と片山某大臣のスキャンダルにうんざりしている。内閣改造のたびに適材適所なる言葉が任命者から発せられるが、そんなものを信じている人は任命者、任命された者も含めて誰も信じていないだろう。

 見方を変えて、任命者の安倍氏の考えを忖度すると、やはりこれは適材適所である。新聞が「なにが適材適所だ!」と吠えるのをみて、おそらく安倍氏は、してやったと思っているはずである。

 なぜなら、新参の2人が議会審議で批判を浴びることによって、その間本丸の「モリ・カケ」スキャンダルの審議がない。然り、安倍氏の適材適所とは、わが身の外堀を作ることにあり、目下奏功した次第である。

 実際、追及する野党もまことに厄介だ。次々にスキャンダルが露見するから、あれもこれも叩かざるを得ない。A問題を追及するときB,C問題を一度に喋られない。

 うまくいけば、野党はスキャンダルばかり追及して、「大事な」国政問題に関心がない、と読売新聞あたりが書く材料にできる。とはいえ、やはり基本的政治姿勢に関わることだから放置できない。辛いところである。

 政治が人々と社会に大きな影響を及ぼすから、政治家とりわけ大臣に就任する者が人格識見ともに問われるのは至極当然である。だから古今東西、それらの諸君にはいわば「哲学」が問われる。

 哲学といえば象牙の塔のかび臭い一室で額にしわを寄せた学者が分厚い書物を手に鎮座ましまして取り組むもののような先入見があるが、本来はそんなものではない。人間として生きる以上、誰もが哲学者である。

 明治時代に1人の知識人が、philosophyなる言葉に出会った。それまでこんな言葉、概念に出会ったことがない。西周(1829~1897)が、『万国公法』の翻訳をなし、日本人に西洋哲学を紹介した。

 いかなる言葉を当てはめるか。宋学の儒学者で道学の開祖と称された周敦頤(1017~1073)の、「士希賢」(賢哲の明智を希求する)という言葉を思い出して、それを参考にして「希哲学」という言葉を作った。

 いわく、ものごとの根本原理から統一的に把握して理解するという趣旨であり、人生観・世界観、全体的なものの考え方を勉強する意義である。

 哲人は見識が高く、道理に通じた人である。賢人は賢い人であり、中国では古来聖人に次ぐ人である。いまの人はご存知ないだろうが、下世話では清酒を聖人と呼び、にごり酒を賢人と呼んだ。「聖人に会いに行こう」と連れだって出かけた。

 人生観・世界観、ものの考え方とくれば、どなた様も哲学者たらざるを得ない。自分に関係した面白くもない厄介な問題が発生すれば、いつも、誰もが哲学していることになる。「うちの課長は哲学がないんだよなあ」と居酒屋談義にも哲学が登場する。

 わが国の石器時代・縄文文化の時代にはまだ耕作がなかった。その紀元前6世紀前後までギリシャ人は、「生まれないほうがよい。もし、生まれたのであれば一刻も早く生まれない前に戻るのがよろしい」という厭世観だった。

 それを大転回して、彼らは、人生には浮き沈みがある。神の思し召しだから仕方がない。ならば、とことん人生という舞台で演技してやろうじゃないかという考え方に変わる。覚悟して現実と対峙してやるぞというわけだ。

 「論理が導くところであれば、どこへでも進もう」(プラトン 前427~前347)という。その時代の人々は、巧妙な演説家の前では「不信用」の態度をとった。衆愚政治の本質を見抜いていたのである。

 さて、今度は法務省が外国人技能研修生の調査で、立派な捏造をやってのけた。諸外国は難民が押し寄せて困っているが、わが国においては、呼び込んでおいて難民化しようという世界的に稀有な政策を打ち出している。

 「モリ・カケ」スキャンダルでは、官僚による忖度が流行語大賞! だったが、あの事情は忖度ではない。正しくは「一連托生」なのである。

 遺憾千万だが、わが国の政治家・官僚にはパブリック・サーバントの伝統が決定的に欠落していて、いまも、相変わらず「お上」意識にどっぷり漬かっている。デモクラシーの安い鍍金がどんどん剥げる。