週刊RO通信

「文化の日」に考えた

NO.1275

 「文化の日」、11月3日は、「自由と平和を愛し、文化を進める」日という意義である。1946年のこの日、日本国憲法が公布された。(施行は翌47年5月3日)1927年から48年までは明治節で、明治天皇の誕生日を祝った。明治から出発した軍国主義日本が、自由と平和にして文化を進めるデモクラシー国家へ転向した意義が「文化の日」に込められている。

 日本文化の伝統というが、何がその本質なのか。容易にはわからない。

 唐(618~907)が世界的大帝国を立てたのに倣って、大和政権も中央集権制を強化した。7世紀末から8世紀初頭にかけて白鳳時代と称する。律令体制、記紀編纂、万葉歌人が輩出し、仏教文化が栄えた。

 奈良時代(710~784)は、朝鮮半島からの帰化人が多く日本へ入った。漢字も帰化人を通じてもたらされた。これは5世紀初めとされるが、文字を使用するのは帰化人の史部(ふひとべ 文書・記録作成)くらいであった。

 帰化人がもたらしたのは、生産用具から工芸品など広汎なものであった。漢字は当初、人々の生活に直接役立つものでなかったのは当然であるが、日本人が文字をもつ民になったことの意義は極めて大きい。

 白鳳時代後、盛唐期の文化を大々的に採り入れ、建築・彫刻・絵画・工芸など、大陸的・仏教的な特色の天平文化が花開く。庶民は、租・庸・調・雑傜・兵役・出挙などの租税が課された。文化どころではなかったはずだ。

 「和魂漢才」という言葉が登場するのは、平安時代(794~1183)中期という。日本固有の精神と中国の学問と、その融合・活用を意味する。進んだ文化を採り入れて、さらに独自の発展を期そうという気持ちであったろう。

 応神天皇の5世紀前後に、孔子の『論語』が到来したとされる。聖徳太子の「十七条憲法」(604)は、仏教・儒教の思想が混然一体、調和的に展開されている。和魂漢才の事例の1つというべきである。

 文化といえば、1つの精神活動である。日本で携帯電話が市販されたのは1987年である。それから30年ほど、いまや携帯電話は身体の一部のようだというほど浸透したが、精神活動のほうは、そう簡単に浸透しない。

 たとえば5世紀に到来した儒教は、徳川時代中期、伊藤仁斎(1627~1705)が、京都で古義堂(堀川塾)を開いて、独自の学問として教授するまで、目立った大きな動きはなかった。

 日本の儒教とされるものは、朱子学が目立つ。北宋時代(960~1276)に朱熹(朱子 1130~1200)が北宋以来の儒教の流れを集大成した。

 格物(自己とあらゆる事物に内在する理を究める)、致知(知見を広げる)、そして、窮理(究極的に宇宙普遍の理に到達する)をめざすとする。そのような人が治めてこそ(修己治人)、天下泰平になるというのである。

 日本固有の精神というものが、そもそもよくわからない。前2世紀ごろ金属器と水田耕作をもたらしたのも大陸からだった。時代が下がってくればくるほど、仏教・儒教だけに限らず、いろいろな考えが混然一体化している。

 日本固有の精神といいつつも、人々はある時代に生きているのであるから、その時代的精神というものもまた存在するだろう。また、精神とは各人各様のものであり、結局は、それらが全体にどんな気風を奏でているかということしか、おそらくは理解できないであろう。

 大正デモクラシーと称された時代の青年たち(主として学生)は、「カントを理解することはカントを超越することだ」という気風をもっていたという指摘がある。優れたものを摂取してさらに「なにか」を生み出そうとする気持ちである。これは明治時代の「和魂洋才」論とは一味違う見識である。

 日本的精神であるとか、日本的文化というものの本質・核心を掴むのはとても難しい。外来ものをすべて取り除いたら「なにが」残るのか?

 敗戦後、わが国はデモクラシーになった。「なった」のであって、人々が「した」のではない。この意味は、非常に重たい。わたしは50年以上前からデモクラシーという言葉に憧れを抱いた。なぜ抱いたのか、いまだ不明だ。

 尊敬する渡辺一夫先生(1901~1975)が万感の思いを込めて「草根虫のように幽幽として生きるしかない」と記された。なるほど「幽幽自擲」の精神で、わが文化を追求していくべし、と心する次第である。