週刊RO通信

沖縄「県民投票」の意義

NO.1274

 沖縄の市民団体が署名活動をして、沖縄県に県民投票の条例制定を直接請求した結果、沖縄県議会が条例制定を可決し、6か月以内に辺野古移設問題に関する県民投票がおこなわれる。

 これに対し読売新聞は社説(10/28)「辺野古移設問題 県民投票は混沌と分断を招く」を掲げた。社説の論点は以下の通りである。

 ① 県民投票を実施すれば基地問題をさらに混乱させる。県民(意識)の分断と、基地負担軽減取り組みを頓挫させかねない。

 ② 自治体の住民投票は、本来、地域固有の問題が対象であって、(辺野古移設の可否を問う県民投票は)国の安全保障政策とはなじまない。

 ③ 賛成か反対かの二者択一方式だと、諸手を挙げて賛成ではないが、「受け入れざるを得ない」人(の考え)を排除するのではないか。

 ④ 県全市町村のうち複数が(県民投票を)懸念し、協力を留保している。

理屈の体裁は整っているけれども、まず、見出しからして現状認識が頓珍漢である。すでに十分、沖縄は混沌と分断の状態になっている。それも昨日や今日の話にあらず。敗戦後73年間をずっと貫いて混沌と分断だ。

 県民投票しようという声が意味するのは、党派性が絡む各種選挙の結果だけではなく、県民1人ひとりが、自分の意思表示をしようというのである。その結果を日本全国の1人ひとりにわかってもらいたいのである。

 当然ながら、投票結果が辺野古移設を反対すると決まっているわけではない。もしかすると、諸手を挙げて賛成ではないが「受け入れざるを得ない」という結果になるかもわからない。

 だから、県民投票実施を求めた方々も大きなリスクを抱え込んでいる。もし、投票に敗北すれば、辺野古移設反対の決定的な手段を失うことに直結しているといっても過言ではないからである。

 いまだ沖縄の心を考えない人は、「基地収入と、国税投入」によって県民生活が維持されていると信じ込んでいる。話は完全に逆で、大きな基地の存在ひとつを見ても、それが県民生活を圧迫している。

 「基地負担取り組みを頓挫させかねない」という記述が意味するのは何だろうか? 主語がないから曖昧だが、おそらくは政府が繰り出すあの手この手の決め球としての援助がどうなるかわかりませんよというのだろう。

 いかにも県民のことを慮っているような文脈であるが、その本質は、政府がやってきた県民に対する恫喝政策そのものを意味しているように、わたしは思う。読売の政府・与党「提灯持ち」の恥をさらすようなものだ。

 住民投票が地域固有の問題に関することは当たり前である。県民にとって、基地問題が最大の地域課題であるくらいは、読売も取材して十分知っているはずだ。国の政策が地域住民を苦しめているのである。

 辺野古移設は、国の安全保障政策の一環であるから、住民意思を問うことになじまないという。それは、呆れ果てるくらい高飛車の国家権力主義である。国のやることに黙って従えというのは敗戦以前の国のいうことだ。

 地方自治は、住民の自治によるというのが敗戦後デモクラシーの原理である。地方自治に寄せられる願いは、地方自治は国の権力の強大化を抑えて、権力を地方に分散させるという、極めて重大な意義がある。

 国の権力が住民の意思を理解せず、ちゃらんぽらんに暴走するのを食い止めるために地方自治が大きな役割を果たす。だから、読売は、国の政策に「なじまない」などと中身空疎な理屈を押し立てるべきではない。

 かつて公害問題に苦しんだ当時、先進的な自治体は、法律以上の対公害条例をつくった。(公害に対する)「上乗せ条例」といわれた。自治体の条例は、法律に劣る位置づけであるが、適法とされてきたのである。

 敗戦後、米国の植民地とされ、1952年の日本の独立回復で置き去りにされ、1972年5月15日の沖縄復帰後も、実質的に巨大な米軍基地が県民の生活を圧迫し続けてきた。誰もが、県民の辛さを忖度して当然である。

 国の安全保障という大義名分をひたすら押し出し、「寄り添う」という中身のない言葉で厚化粧し、実際は問答無用の「沖縄処分」を続けることに対して、わたしは1人の国民として、はっきり「NO」の意思表示をする。