週刊RO通信

政党、とくに野党の今日的意義

NO.1272

 政党は、それへの参加者(広い意味で同志)がお互いの政治的原理・政策の実現に向かって、政権の獲得あるいは政治的参加・参画を拡大しようとする団体である。だから小たりといえども政権獲得をめざすのは当然である。

 政権獲得をめざすのだから、各党は、政策を磨いて、政策によって国民の支持を獲得しようとする。だから、議会で野党は与党に対して、反対ばかりするのではなく、政策で競えというのは当たり前の見識である。

 政党による政治は議会政治が前提である。民衆の代表者たる議員が議会においてじっくり審議する。大方の議員は政党に所属するのだから、議会政治と政党政治は実際的に同じ意義をもっている。

 議員になるためには選挙で当選しなければならない。選挙戦に勝ち抜くことは容易ではない。選挙に勝つためには広い意味で人気がなければならない。議員としての能力が卓抜していても当選するとは限らない。

 昔から、議員になるためには「ジバン・カンバン・カバン」のいずれが欠けても当選しないといわれた。さすがに昨今は、昔ほどカバンの中身にモノをいわせるという話は表面化しないが、全く清廉潔白だというわけでもない。

 大昔、わたしは女性新人の衆議院議員選挙運動に関わった。引退議員の地盤を引き継いだ。憲法学者という看板のみ。ご本人の軍資金は300万円しかない。応援団は全面的に手弁当で、カンパもした。

 保守政治家は2~3億円使っていたという。同氏はまちがいなく「花」があった。こびず、へりくだらず、おもねず、あまえず、率直で飾らぬ人柄であった。このような天性の! 人徳を備えている人はそう多くはない。

 そんな次第だから、当選しても多くは「田んぼの草取り」活動に精出さねばならない。いわゆるスキンシップ、顔つなぎ、大中小ボス、その他諸々との人間関係作り・維持に勤しむという慣わしを繰り返さねばならない。

 ここで課題となるのが政党としての活動である。政党活動は、時代を見据えて中長期的な政策の涵養を怠らないこと、民衆の共感を獲得するための日常活動、つまり調査・研究・政策作り・広報宣伝活動を確立する必要がある。

 これは、政党が小さかろうと大きかろうと、徹底し、とことん追求しなければならない。しかし、昔から指摘されているように、わが国政党の活動は大方が議員中心で、政党としての活動に見るべきものが少ない。

 いずれにしても政党活動も物量に優る大政党が有利である。物量有利の大政党に対抗するためには、小政党は政治の「質」に注目するべきだ。たまたまというべきか、昔からというべきか、わが国の政治は低質である。

 低質の理由の根源は、やはり相変わらず「利益誘導」型にある。人々は日々の暮しに追われているから、目前の損か得かに着目しやすい。生活・思考習慣、しがらみがいつまでも継続する理由である。

 しかし、それは正しい意味の現実主義ではない。わたしたちの目の前の現実は、実は、その時点における1つの現象である。それを絶対視するならば、わたしたちは未来をいまよりも良いものにはできない。後退するのみだ。

 最近は、愛国心と書いた帽子をかぶって乱暴狼藉の言葉を吐く事例が多い。ネットに登場する言質の低質さは行くところまで行った感である。それが、いまの自民党権力派が招いたことは、ほぼ疑いがない。

 これをリアルに注目すると、これらの動きには未来に対する思考能力がない。ために、極端な復古調を奏でている。現状の行き詰まり感の解を復古ロマンに求めざるをえないところに、彼らの限界が露呈している。

 政治は、社会の現実的な仕組みを考えるのであるが、仕組みを作ってもそれが直ちに社会を円転滑脱化しない。新しい酒に新しい皮袋ならいざ知らず、古い皮袋へフル・モデルチェンジするような思想は退廃の極致である。

 人々の願いは、「普通の人が立派にやっていける」人生にこそある。この大本から、わが国政治を眺めた場合、果たしてそうなっているだろうか。いま、展開中の政治は権威主義・専制主義そのものである。

 野党は、政治をものごとの根本から語って、あるべき姿を堂々と提起してもらいたい。デモクラシーの王道を掲げることによって、腐臭紛々の政権党の姿が浮かび上がる。人々は必ず野党を支持する。