週刊RO通信

虚勢に頼るのは無力だから

NO.1268

 9月14日、日本記者クラブ主催の自民党総裁候補討論会があった。新聞記者(記者クラブ代表質問)からの質問と答弁を一部拾ってみた。

 「国民が、首相が信頼できない」というのは非常に深刻な問題で、不徳の致すところと答えてお仕舞にしてはいけない。なぜそうなのか。その(改善の)ために何をなすべきなのか。この質問をしたのが安倍べったり御用記者の読売新聞H氏だから、なかなか興味深い。

 例によって安倍氏が中身のない答弁をした。H記者が、国会でも「きちんと誠実に答えていない」という声もある、と再質問すると、「誠意をもって答弁してきたつもり」と応ずるから、答弁にならない。

 毎日新聞K記者が、「安倍夫妻が森友問題に関係あり」だと追及すると、安倍氏は「昨年総選挙で国民の審判を仰いだ」と答えた。しかし、森友公文書改ざんや、加計学園問題で愛媛県文書が発覚したのも選挙後の事実で、国民の審判を仰いだとはいえない。

 朝日新聞のT記者が、プーチン氏が「領土問題抜きで平和条約を結ぼう」と語ったことについて、従来、日本政府が、領土問題確定が先としていたこととの関連を質問した。

 さらに、領土問題について「自分が首相の時代に何とかする」と吹き続けてきたことを指摘されると安倍氏は、「私の時代にはできませんと言ったほうがいいですか」と開き直る始末である。

 H記者が北朝鮮拉致問題について「解決できるのは安倍政権だけだ」と言っていたがと、見通しを質問すると、安倍氏は、「安倍政権だけだと言ったことはない」と嘘をつく。

 言葉に信頼がおけない政治家は政治家たる資格がない。これは、国民の誰でも当たり前だと考える。嘘とごまかしに対する批判は当然である。

 長く続く安倍政権を見ていてつくづく思う。安倍氏は、生身の人間としてみれば無力な個人にすぎない。たまたま首相の座に就いて、国民を代表するという形式において、嘘やごまかしを押し通すのである。

 これが「権力」なるものの恐ろしさである。まともでない、無力かつ弱い人間が権力の座に就くと、無力さと弱さを隠すために全身全霊! を投入するのである。当然ながら政治の在るべき姿とは日々離れていく。

 人は、自分の個性をさまざまな分野において表現し発揮している。なぜなら、個性を発揮することこそが、人生において自分の自由を実現していくことだからである。

 たとえば、職場で自分の担当範囲内で精いっぱい自分の仕事能力を発揮しようとする。「いいモノをつくりたい」「お客さんに喜んでいただきたい」と語る勤め人は少なくない。単に出世するために悪戦苦闘するのではない。

 ところが始末のわるい政治家は、「いい政治をしたい」「国民に喜んでいただきたい」とは考えない。自分が、政治家のポストにあることに最大の関心があり、ポストに執着する傾向が強い。これが陣笠議員の特徴である。

 問題は陣笠が権力を掌握した場合である。いい政治をして国民に喜んでもらうなんてことは、おそらく考えたこともなかろう。実際、法律を書くのも官僚であり、自分がねじり鉢巻きで勉強するのでもない。

 つまり、政治家として個性を発揮し実現するという本来の目的がない。最大の関心は、自分ではないところの「権力」をいかにして維持し続けるかという一点に絞り込まれている。

 権力を自動車に例えれば、自分の個性を発揮して自動車をつくるのではなくて、ひたすら自動車に乗ることだけが目的である。自動車は自分の個性とは全然別物である。自動車に乗り続ける(権力を維持し続ける)ことが、格別自分の個性を磨くわけでもない。個性はどこかへ消えている。

 いい仕事は、人間がするのであり、個性の産物である。無力・貧弱な人が巨大な権力の座に就いて、嘘でもごまかしをしてでも権力の座にしがみつく。

 なぜ安倍氏が正直・公正でないか。それはもともとの寸法が貧弱であるのに、権力によって膨らんだ風船だからである。無力と弱さが権力によって膨張した人間の虚勢の中身は、すでに露見している。