週刊RO通信

沖縄の「折れない」意志を

NO.1263

 1945年4月1日、すでに日本の敗戦色濃厚であった。この日、米軍の沖縄上陸作戦が始まった。米軍地上戦闘部隊18万人余、後方部隊を合わせると54万人という大戦力が沖縄戦に投入された。

 対する日本軍は10万人、その1/3が現地徴集の急作り兵士である。米軍は読谷から北谷にかけての西海岸から上陸した。日本軍主力部隊は宜野湾の嘉数高地から浦添の前田高地の丘陵地帯に陣地を構えた。

 嘉数高地から那覇市首里までの10kmが主戦場となった。圧倒的に武力に優る米軍が10kmを突破するために50日を要した。5月末、首里の日本軍は司令部を放棄、ぼろぼろになって南へ落ち延びた。

 沖縄戦で可能な限り時間を稼いで、「本土決戦」に備える。これが、沖縄「捨て石」作戦である。南部の洞窟には多くの住民が避難していたが、日本軍によって追い出され、さらには殺された人も少なくなかった。

 本土出身の兵士6.5万人、現地で急ぎ徴集された3万人、民間人9.4万人が亡くなった。6月23日、沖縄日本軍は壊滅した。4月5日には読谷村に米海軍軍政府が設置された。アメリカによる沖縄統治が始まった。

 1953年の米民政府による「土地収用令」で、銃剣とブルドーザーによる土地強制収用が開始。沖縄県民は抵抗するが、「基地のなかの沖縄」が着々と進められた。「祖国復帰」が県民の合言葉である。しかし、祖国復帰運動は米民政府によって露骨に弾圧された。

 「沖縄がやらかした罪の十字架を沖縄が担うのではなくて、国が犯した罪の十字架を沖縄が担っている」。県民の気持ちは、日本国民すべてに、沖縄問題が「自分の問題」であると考えてほしい。米民政府の弾圧以上に、辛く、情けないのが本土の同胞たちの無関心であった。いまも、変わらない。

 1968年11月、初の主席公選に当選したのが、屋良朝苗さん(1902~1997)である。52年に沖縄教職員会の初代会長に就任、祖国復帰期成会や土地を守る会会長として、祖国復帰運動の先頭に立ち続けた。

 沖縄の日本への復帰は72年5月15日である。しかし、それは県民の期待とはまったく異なる内容であった。屋良さんは復帰後の初代県知事に当選し、76年6月までその任にあった。

 屋良さんはもともと物理の先生である。教職員会会長として53年の年明けから半年、日本全国を行脚した。戦災校舎復興と祖国復帰を訴えた。本土では祖国復帰の関心が低かったが、屋良さんの「沖縄は必ず祖国復帰する」という信念が揺らいだことは一度もなかった。

 沖縄の教育基本法に「日本国民として」の7文字を盛り込む運動は7年を要した。琉球立法院で可決しても、米民政府高等弁務官が拒否する。3度目の可決でついに米民政府に認証させた。1958年であった。

 これを認めることは、復帰を前提としなければならないから、この運動の過程では絶対に「祖国復帰を前提する」とは言わない。徐々に相手の牙城を崩す。屋良さんは振り返って、「これがいちばん嬉しかった」と語った。

 アメリカが認めたのだから、日本政府が認めないわけにはいかない。沖縄教職員は「わたしたちは日本国民として教育している」と語り、自負と誇りをもって「祖国復帰」を高らかに語った。これ、屋良さんの自慢であった。

 屋良さんの憧れは「日本国憲法」であった。沖縄県民が、本土以上に真っ当な日本国民意識をもち、人権感覚をもったことは、沖縄が置かれている不条理な状態が必然的に生み出した。これ、屋良さんの誇りであった。

 屋良さんは「生々発展」を人生観とした。人間として生まれる、そして人間らしく生きるという意味である。だから納得できない状況に対しては、人間らしく打開する闘いを挑む。

 「タマゴは外からの力で潰されれば生が終わる。タマゴを中からの力で壊せば新しい生が始まる」。沖縄県民の抵抗の意義を理屈づけすれば、こういうことになる。県民にとって、かつての米軍が「日本政府」に取って代った。

 屋良さんに話を聞いたのは県知事を降りた直後、76年夏であった。これはわたしの組合機関誌に掲載した。42年が過ぎた。翁長雄志知事が亡くなった。権力に対して「折れない」気骨を貫かれて——